蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

価値観について

人の話を聞いたときに、賛成したい気持ちと反対したい気持ちがほぼ同時に発生することが増えた。異なる価値観が同居していると言い換えてもいい。

 

たとえば、コンサルタントとして就職したい、と友人Aから聞いたとする。「いや、かつて戦略コンサルがイケイケだった時代とは違って、いまではコンサルタントコモディティ化(汎用品化)しているし、当時のような人材は集まっていないよ。」という反対意見も浮かぶし、「この子だったら、あの生き馬の目を抜くような過酷な競争環境でも生き残れるかもしれない。」と応援したくなる感覚もある。

 

実際、戦略コンサルタントとして1年目を終えた友人Bは、目に見えて人間としての魅力が高まってきており、優れた上司とも知り合えたみたいで、このような洗練された人物が育つ場所ならば良いのではないかと思ったりもする。

 

ところがそんな友人Bの話を聞いてみると、職場環境としては耳を疑うような話も聞いたりする。高給だから低賃金長時間労働ではないが、果たしてその数百万を稼ぐためにその時間を売ることが適切なのか、という不安感を覚える。成功例ですら万々歳ではない。情報のベクトルが入り混じり、感情と発言をひとつに定めることができない。

 

そんなとき、友人Cの発言を思い出す。「調べていくと良い情報も悪い情報も何十何百と集まりますが、それは当たり前なので、当面は重要事項だけに集中します」。

 

それでは重要な事項とはなんだろうか。

この文脈で言えば、僕は価値観に沿う事項だと思う。

 

 

成功は定義できない。荒すぎる概念だ。幸せも定義できない。それも雑すぎる。世間的には大成功したと思われている人も、本人に聞いてみると意外な悩みに苦しんでいたりするし、楽しかったりワクワクしたような思い出も細部まで点検すると辛い時間がけっこう長かったりする。最後にハッピーが待っているような事項を幸せとみなす人ばかりではない。純粋に楽しみだけで満たされた活動が存在するとは思わないし、それが幸せであるとは信じない。

 

一日の、あるいはある期間の多くが、自身の価値観に反さない時間であることを、人は求めているように思える。人は「いま自分の価値観に沿っている時間の過ごし方をしているなあ」とは言わない。「いま幸せだなあ」と言う。高校で文化祭実行委員をやった子が、大学でも多くの時間を投下して参加していた。彼ら彼女らにとっては計画の興奮がどんな日常の些事より重要だったのかもしれない。どんな日常の些事よりも。

 

目的もあまり適切ではない気がしている。僕含め多くの人は大して目的もなく過ごす時間を経験しているし経験していく。そのときでも残っているのは何かと考えたとき、価値観は残っていると思う。明確に意識されているわけではない、自然あるいは反射的な感情や感覚。

 

その観点から、どうして自分が二律背反な感情を人の意見に持つようになったのかを考えてみると、たぶん「できるのならば知りたいことは網羅的に知りたい」という自分の価値観が影響しているのだと思う。同じ現象であっても、時と場所がほんのすこし違うだけで全く異なる結果になることを知ってしまった。これからはこの状況と付き合っていかなければならないのだと思う。

2015年度紅白歌合戦の出場年齢層は14年前と比べて若返ったか?

 

昨日は久しぶりに紅白歌合戦を見ていたのだが、おや?と感じた。

 

なんだか子どものときに見ていた紅白に比べて、知っている歌手が多い気がする。

 

♪ 僕の身体が昔より 大人になったからなのか と徳永英明風に無視してもよいものだが、何だか気になった。年末は掃除やら何やらでいつもバタバタしているので、僕が最後に紅白をまともに見たのは恐らく小学生か中学生のころ。つまりいまから10数年くらい前だ。

 

紅白は10数年前から何が変わったのか。

 

Wikipedia紅白歌合戦のページを見てみると、

 

第53回2002年)において、番組側は「日本音楽界の総決算」をテーマを掲げ、出場歌手・曲目の多ジャンル化を決行[76]第52回2001年)まで常連だった演歌歌手が次々に落選となり、同回以降、演歌歌手の出演数が従来の半分以下になった[77]NHK関係者は「出場歌手別に視聴率を調査すると演歌の時が目立って下がる。止むを得ない」と語っている[78]。

( NHK紅白歌合戦 より引用、強調は僕によるもの)

 

とのことだ。

 

今年の出場者陣を改めて見てみると、氷川きよし(38歳)や山内惠介(32歳)など若手の演歌歌手は確かに残っているし、常連の演歌歌手の名前もチラチラ見えるのだが、確かに子どものときに比べて(僕にとっては退屈な)演歌の時間が減った気がする。

 

興味を持ったので、分析してみた。対象としたのは、上記Wikipediaによると「演歌歌手を減らす前」だった2001年の紅白出場者と、今年2015年の紅白出場者の年齢である。

 

紅白歌合戦は、60年続くだけあって、紅白歌合戦データベースなんてサイトがあるぐらいファンが多い番組のようだが、このデータベースサイトにも「出場者の年齢変化」を扱っている様子はない。60秒に及ぶ綿密で網羅的なGoogle検索の結果、ひとつだけ先行研究を見つけたが、2015年の出場者のみであり比較ではない。

 

紅白出場者の年齢がどのように分布しているのかは、あまり調べられていないようだ。なので、2015年のデータについては先行研究のデータを参考にし、2001年についてはWikipediaで大体の推定値を入力した。

 

グループアーティストについてはボーカルの年齢を、全員がボーカルのアイドルグループについてはWikipediaで目についたメンバーの年齢を代表値として入力した。

 

その結果、得られたのが以下の出場世代分布図だ。

 

f:id:koshka-j:20160101180021p:plain

 

なんと、出場者の平均年齢は14年経っても1歳ぶんも変動していない。

 

これは美輪明宏(80歳)が初出場で最年長だったからではなく、むしろ美輪を抜くと2015年の平均値は39.9となり2001年と0.1歳差に迫る。

 

しかしグラフからは平均年齢は変わっていなくても分布の中身がかなり変わっている印象を受ける。紅白の出場者は2001年が54団体、2015年が52団体で大差ないが、30代の出場歌手が激増している(8団体→18団体)。その代わりに減ったのは40〜50代であり、28団体から13団体まで減っている。つまり、平均年齢が一致したのは単なる偶然だと言えるだろう。おそらくこの分布は最頻値 mode や中央値 median で解析するべき特質を持っている統計データなのだ。紅白がどういう思想で作られている番組なのかは寡聞にして知らないが、最頻値が「コンテンツの中心となる歌手陣の世代層」、中央値が「平均の年齢」とみなしてよいのではないだろうか。中央値は01年で43歳、15年で37歳である。

 

個別に見ていくと、同じ50代のソングでも主要ジャンルが変化しているような気もする。僕はあまり歌手に詳しくないので全員について言及することはできないが、少なくとも今井美樹徳永英明X JAPANが歌うのは演歌ではないことは分かるし、というかヨシキはピアノ弾いてたし、松田聖子が歌っているのは『赤いスイートピー』だ。 ♪ 春色の汽車に乗って 海に連れていってよ…。同じ世代層と言っても、もはやコンテンツの特質が異なるということか。

 

30代はゆず・TOKIOSMAP椎名林檎EXILEなどなど10代後半の若者〜30代(?)に受けそうなグループが参戦しており、38歳ーーここが2015年の分布のピークであることは興味深い。2001年のピーク(最頻値 mode )は51歳だったのである*1

高齢化社会の中で、なぜか紅白の出場者は若返っているのだ。

 

そして、60代での出場者も増えている(3人→6人)。2015年は2001年より出場組数が少ないのにだ。ちなみに小林幸子(62歳)は特別枠での出場だったので2015年の統計から外しているため、彼女を入れると7人、すなわち2.3倍になる。

 

ところで、なぜ01年のほうが最年少出場者が若いの?と思う人もいるかもしれない。ザッと調べたところ、労働基準法に抵触する恐れがあるため自主規制をしているようだ。

 

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出場順をヨコ軸、年齢をタテ軸に取ると、上のグラフのように、およそ22:00前で18歳以下の出場者が消えることが分かる(今年のNMB48は大丈夫だったのだろうか?あまりよくわからない)。また、2001年は後半の10人全員が40歳以上という特殊な現象が生じている

 

その10人の曲目を出場が早いものから並べてみると以下のようになる。

 

森昌子森昌子メモリアルスペシャル」

美川憲一 「恋女」

石川さゆり 「涙つづり」

堀内孝雄酒と泪と男と女

川中美幸 「大河の流れ」

さだまさし 「きみを忘れない~タイムカプセル~」

天童よしみ 「春が来た」

五木ひろし 「逢いたかったぜ」

和田アキ子 「夢」

北島三郎 「山」

 

これは若者には厳しい布陣…!!!

やはり、2001年はクライマックスに演歌系で盛り上げるという特殊な傾向があったようだ。

 

 

まとめ

 

  • 01年と15年の紅白出場者の年齢を比較することで、日本の年末定番番組のコンテンツの変質を追った。
  • 同じ50代のソングと言ってもジャンルが異なる傾向にあることが示唆された。
  • 出場者の年齢分布の最頻値が50代から30代に移ったことを確認した。中央値は43から37に変遷した。
  • 若い人は前半でほとんど切り上げるのかもしれない。

 

個人的な感想

 

同じ番組とはいえ、製作方針がかなり変わっている印象を受けた。小林幸子がコメント弾幕のなか千本桜を歌うのは、演歌とは違う向きでの生存を狙ったイノベーション戦略だろうし、まあぶっちゃけ普通に見ていて面白かった。

来年も見ることにして、楽しみにしていよう。

 

使用したデータはこちらです。

紅白ファンの方、年齢のデータなどおかしい点などあればぜひ指摘お願いいたします

*1:同率で24歳もピークである。

『戦略がすべて』第5節の感想:最適戦略とプレイスタイルから見える性格

『戦略がすべて』を少しずつ読み進めている。

 

前回書いた第4節(単なる熟達ではない要因によって可能になる高額報酬について)に続く第5節では、実はロールプレイングゲームのなかに適切な経営戦略のヒントが隠れていると論じられている。

 

 

僕はゲームの非効率さ、たとえばロード時間や時間をかけるだけのレベル上げが大嫌いであるため、正直に言ってしまうとテレビゲームやスマホゲームの類は大嫌いなのだが、ファイナルファンタジーを1〜12(2と11は除く)を全クリした程度にはプレイ経験があり、作ったミニゲームが小さな賞を取ったこともある程度にはゲームのメカニズムに触れてきた。

 

しかしその程度のゲーマーからすると、RPGのなかに資本主義社会の要素が含まれているという著者の考え方は新鮮だった。僕は単なる時間つぶしや交流の手段としか捉えていなかった。ドワンゴの川上社長などTRPGを重視する人は聞いたことがあるが、RPGに経営とのつながりを見出している人は初めて見た。

 

この記事では、当該書では言及されていないが、僕が昔から気になっているRPGの2つの要素について考えてみたい。それは、

  • 強い武器を買ったのにパーティーが非効率になってしまうケース 
  • 盗賊の「盗む」コマンド

の2つである。1つ目は書いていないというより、「新しい装備を導入した直後は一時的に効率が低下する」(p.60)と簡潔に述べられているので、もう少し詳しく考えてみたい。

 

1つ目について。ターン制の戦闘RPGをやったことがある人なら誰しも経験があるだろうが、ザコ戦において「攻撃1発で / 2発でギリギリ確実に倒せる敵」というのが最も都合が良い。攻撃というのは現れた敵の数を0に近づける行為であり、こちら側が1ターンに出せる火力を無駄なく出すことが最も速く敵の数を0にする方法である行為であるため、「ちょうど倒れる」ことが部分最適解が全体最適解に一致するという点で理想的な現象である。

 

問題は、強い武器を買った直後はこのバランスが崩れてしまうことだ。50ダメージを与える武器Aと、85ダメージを与える武器Bで倒れていたHP130の敵Eが居たとする。このとき賢明な設備投資により、武器Bを105ダメージを与えられる武器Cに変えたとすると、武器AとCでの合計ダメージが155となり、25ダメージの余分が生じる

 

この瞬間、攻撃対象をゼロベースで再考する必要性が生じる。考えるべきケースは以下の2つだ。

 

(1)3人メンバーの戦闘システムだったとして、「ダメージ30を与えられる別の武器D」を持っている仲間では微妙に倒せなかった敵が、50ダメージを与えられる武器Aでは1ターン目で倒せるかもしれない。そうすると武器Dと武器Cで135ダメージを与えて敵Eを倒せば、武器Aの余剰火力が活かせるかもしれない。これは、設備投資が明確に活きた良いケースである。問題は次の(2)だ。

 

(2)武器Dが既に一体倒せるだけの十分な火力があったり、武器Cを加えたところで倒せる敵が変わらなかった場合。この場合は実は設備投資の時期を遅らせて、あとあと更に強力な武器を買ったほうがよかったのではないかという選択肢が生じる。買った直後におニューな武器を揃えた武器屋が登場したときのショックなど、サンクコストから来る悲しみは計り知れない。ここに非効率が生じる。

 

実際にはこれらに加えて、出現する敵はそれぞれプロジェクトベースで「今回は主人公のHPを30削るぞ!」などとKPI (Key Performance Indicator)を設定した上でさまざまな布陣で臨んでくるから、ここにおいて武器を変えたあとの攻撃対象は組み合わせ最適化の様相を呈する。

 

なんということか。

ファイナルファンタジーは組合せ最適化問題を解くゲームだったのか

 

敵がどんな布陣で臨んできても瞬殺する数理的な直観力を身に付けた少年少女は、企業の在庫管理や仕入量最適化において抜群の成果を上げるに違いない。なんということか。ファイナルファンタジー社員教育であったのだ。

 

ナップサック問題はNP困難(無理矢理簡単にいえば、数が多くなれば量子コンピュータが実現されたとしても最適に解くのが難しい問題)であることが知られているが、ゲームのプレイヤーは「そこそこいい戦略」でテンポよく敵を倒していくことを求められる。そうしないと今日の晩ごはんに間に合わないからだ。ここで、数理的な最適解以上に、他の制約条件に沿う現実的な解の大切さを自然に学んでいく。

 

 

続いて、(2)のぬすむに関する話題である。

スクウェア(現スクウェア・エニックス)が製作開発をしているRPGファイナルファンタジー』シリーズでは、敵からアイテムを盗むことを特技とするキャラクターが多く登場する。

 

FF4のエッジ、FF6のロック、9のジタン、10のリュックなどなど。5や7や8では特定のキャラではなく、付け外し可能な特殊技能として「ぬすむ」コマンドが用意されている(8では「ぶんどる」)。ファイナルファンタジーのバトルシステムを支えている仕組みの一つであると言えるだろう。敵からぬすめるアイテムには市販されていないようなレアアイテムも存在しており、序盤で協力な武器を手に入れるとその後の戦闘を有利に進めることができる。

 

しかし僕は、このぬすむコマンドを使って一周目のストーリーを進めた覚えがまるでない

 

昔のことだから単に覚えていないだけなのかもしれないが、ここではロード時間の短さを基準にプレイするRPGを選ぶようなユーザーは、ぬすむコマンドを使ってプレイすることがないと一般化して話を進めてみる。もっと踏み込んで解釈すれば、既存の有名どころのRPGではぬすむというゲームシステムによって楽しませることに失敗しているユーザーが居ると言えるかもしれない。

 

どうして僕はぬすむを使わなかったのか。

 

思い出せる限り、僕がぬすむを使っていたシーンが2つある。

ひとつはFF4のオマケ要素である、月の地下渓谷B5Fに出現するプリンプリンセスを出現させるためのアイテム(「アラーム」)を集めていたとき(このアイテムはエッジにぬすませることで効率よく集められる)。プリンプリンセスは他では手に入らない最強装備を落としてくれるモンスターであるため、数十回のリセットを繰り替えして倒し続けていた覚えがある。

もう一つは、FF5ギルガメッシュという敵キャラクターから盗んでいたときだ。こいつはゲーム中で複数回登場するが、攻略本によると強力な防具である「げんじのこて」や「げんじのかぶと」シリーズを落としてくれるというので、登場したらひたすら盗ませていた。ここでは、「攻略本で知っていたから行動が変わった」という情報構造が働いている。プリンプリンセスもそうだった。誰があんなB5Fで急にアラームを鳴らすのだ。

 

すなわち僕は、「ぬすむ」という不確実な行動に対して明確かつ高いリターンが見込めるときにのみ、そのアクションを実行していたということになるようだ。一方で、僕の知人は「ぬすむ」をひたすらいろんな敵に実行することが好きだった。知人にとってゲームは世界観を味わうためのインターフェイスであり、どういうモンスターがどういうアイテムを持っているのかは、たとえ100回に1回良いアイテムが手に入るだけでも、プレイ時間を引き延ばすことにつながるため、リターンの高い投資だったのだ。

 

こう考えると、心理学や性格診断よりも、RPGのプレイログにこそユーザーの正確が如実に現れるのではないだろうか。

 

将来のマーケティング担当者は、開示していないプライベートな情報ではなく、あなたがゲームをプレイしている姿を見てマーケ戦略を決めているかもしれない。

 

おしまい

 

 

戦略がすべて (新潮新書)

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数学って役に立つの?に対する試論

 

中学や高校で、2次方程式やら確率やら対数関数やら学んできたけど、こんなこと学んで意味があるの?いい会社に入るためのスキルセットとか、相手を説得するための話法とか、実学を学んだほうがいいんじゃないの?

 

 

明確には表明しないだけで、数学が苦手な人は誰しも上記のような感慨を抱いている。

 

代替案として提示された道具が役立つことは認めた上で、また数学が果たして誰しもが学ぶべきものか?という供給と需要のミスマッチも認めた上で、

 

しかしそれでも数学は役に立つ。

 

どのように役立つのか。

 

 

その例としてはおそらく、幾何学が最も納得しやすい。

 

この世界に暮らす誰しもが、直線 straight lines や平面 planes というものを見たことがある。街に張り巡らされた電線やタイルの模様、スターバックスでコーヒーを置く机の表面 surfaces や、いまあなたがこの記事を読んでいる電子情報媒体の画面 screens は、(数学的な定式化をしてしまうと厳密には違うのだが) 数学で出てくる直線や平面にとても似ている。

 

どうしてだろう?

 

歴史的な経緯は知らないが、これまでの僕の聞いた話を総合するに、それは数学で使われる直線 straight lines や平面 planes という「思考するための単位」が、もともと私達が身の回りで見ているような物体の性質を整理して曖昧さなく述べたものだから、ということなのだと思う。

 

 

とても頻繁に見るものだから、よく知っている。

よく知っているものに似ているから、知らないものでも、類推が聞く。「線形代数 linear algebra では線形性 linearity を扱う」と聞いたとき、たとえあなたがまったく線形代数も線形性も知らなくても、「たぶん直線みたいなものを扱うんじゃないかな?」と何となく推測できる。

 

数学が役立つのは、この「何となく推測できる」の量と質を上げることができるほぼ唯一のツールだからである

すなわち、形式的なことに対する直観をより精密かつ正確にするためには、「何となく」似ているのではダメで、「同じ」なのか「違う」のか、を誤りなく積み上げていく必要がある。

 

さらに踏み込めば「ずっと同じ手順を続けていけば同じになるかも」(極限、極限値)や「違うけれど、小数第 ホニャララ 位 までは同じ」(近似、線形近似)と言った、現代の数学の主力(教科書では大黒柱 mainstaysと表現されることもある)となっている概念に辿り着いていく。

 

それらを使うと、たとえばネット通販のユーザーの一人あたり購入額が「50000円まではまっすぐで、そのあとは曲がっている」とか、ガンの治療薬を使ったときの余命が「半年までは年齢に対して線形に比例して(まっすぐで)、その後はバラツキがある(別の要因に対して比例していて、それが計算式に入っていないのかもしれない)」とか言った知識直観が養われることになる。

 

あるいは、現実のべっとりとしたデータの方ではなく、さらに純粋な形式のほうに踏み込んでいけば、「円は開区間(0,1)と同相である」(位相幾何学)とか、「多様体のうえでは局所的に(私達が物理的に存在しているような)ユークリッド空間である」とかいった話になってくる。

 

それらの話は、最初はまるで数字遊びのように聞こえるかもしれないが、最近の実世界への数学の応用例は、ここらへんの純粋数学が実は私達の周りに現れているデータをうまく説明する(複雑なデータを、直観に沿うような説明に要約(近似)できる)みたいだ、という発見に満ちあふれている。

 

たとえば世界にはヤバい研究があって、Stanford大学の数学者Gunnar Carlsonが2009年に出した論文によると、

 

「デジカメで撮影した大量のモノクロ写真について、9ピクセル(画素、すなわち画像の最も細かな記録単位)ごとの明るさの値を9次元ベクトルとしてそのベクトルの存在する位置を、データ内に現れた全ての9ピクセルについてとると、それらの点は8次元空間上の7次元楕円(7-dimensional ellipsoid)の形になる

 

ということが分かっているらしい*1

 

楕円と言ったら、僕らがアメフトやラグビーや見るあのボールだったり、駅に入ったヴィ・ド・フランスのフランスパンや、木村屋のあんぱんでお馴染みのかたちだ。

 

デジカメの画像を構成している単位が、8次元空間上のフランスパンから取られた「ぱんくず」だったなんて、きっと1900年代以前の人達は誰も知らなかったに違いない*2

 

 

ここまでの話を読んできた方々は思っていることだろう。

 

 

「やたら難しい話をして誤魔化すなよ。

結局、それはなんの役に立つの?」

 

 

正直、数学のアプリケーションを予測することはメチャクチャ難しい。ただ既に、信じられないような応用例は模索されている。たとえば2015年の5月にMITが出したこの論文では、要約すれば2次元画像として記録された人間の顔に対して「もっと明るい顔にして」とか「もうすこし顎を下にして」とか「ヨコを向いて」と言うと、そのような変換を施した顔の画像が生成できるという魔法みたいな方法が報告されている。

 

論文中に載っている、実際に生成された画像を見ればまだまだ基礎の途上段階であることは明確だが、それにしても発想がヤバい。こいつらリアルにケアルとかサンダガを唱えようとし始めていやがる。

 

仮にこの変換精度が人間が目で見ても判別できないレベルまで上がったとしたら、例えば集合写真を取って「シャッター時に目をつぶってしまった3列目の彼の目を開けて」とか言うと、本当に目を開けた写真ができるようになるのかもしれない。

 

こういうことを、7次元上の楕円をコネコネすることで実現させようとしているのが、究極には数学だと僕は思っている(反論は受け付けます)。

 

 

 このような数学の「強力さ」は一般にあまり知られていない(言ってしまえば、中学高校の先生が教えてくれない)。

 

 

だから人々はあとになって言うのである。

「大学時代に線形代数と統計をやっておけば良かった」、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:難しくて僕も詳細を理解できていないので、一部説明が違っているかもしれない。

*2:そもそもデジカメがなかった

『戦略がすべて』第2章感想、あるいは分析者は儲ける仕組みに関われるか

これは、まだまだ試論である。

 

「4. 「儲ける仕組み」を手に入れる ーー スター俳優の方程式」の感想

 

大ヒット漫画原作者はなぜ映画の原作者としては高給を提供されないのかを契機として、報酬額の決定要因を追究した章である。

 

先日、数年前にベンチャーを立ち上げて現在非常にイケイケな社長から「コンサルタントの仕事って聞けば聞くほど、あやしいよね。でもわかるな、自分の会社もそうだけど、あやしさがないと儲からないんだよね」という話を聞いた。

 

一瞬はて?コンサルタントというのはそんなグレーなことをしているのか?と思った。

 

だが、よくよく考えれば僕も、企業のデータをゴニャゴニャいじって賃金を貰う、という意味不明なバイトをしているので、人のことは言えないのであった。

 

 

 

その人が言っていた「あやしい」というのは、法律を犯しているという意味ではなく、提供されている付加価値がそれほど大衆化されておらず捉えどころがないうえに、不確実性が高いため本当にそれでリターンに繋がるのか(経験をしてみないと、あるいは数値的にシミュレーションをしてみないと)俄には信じがたい、ということを表していたのではないかと僕は解釈した。

 

そもそも価値があるのかが論点なのに、

手に入るかどうかも確率的にしか定まらない。

金融商品に近い性質を持っている。

 

(ちなみにその人の世界観では、その人の属している業界が特殊だったこともあるが、『戦略がすべて』にも書かれている安全策、すなわち資本装備率の高い大企業で安定的な高給を、という策は、上限が見えてしまうもの、という感覚でハナから選択肢になかったようだ。)

 

 

僕は将来、統計コンサルタント(流行りの言葉で言えばデータサイエンティスト)として仕事をしようと考えているため、その文脈で読んでいた。以下は僕自身の整理のために書いたものであり、細かな出典の確認は行なっていないので了承されたい。

 

統計コンサルタント(という仕事がほんとにあるんですよ、というところからいつも説明しないといけないレベルなのだが…)の付加価値は、依頼者の直面している統計的な問題を解決することにある。

 

なんでソリューションを統計に限るんだ、某cKや某センチュアみたいに戦略や総合力で勝負しろよと思われるかもしれないが、それは実際に使う知識を統計に限るというよりは、むしろ見つけてもらうためのラベリングに近い。実際にはアクションプランを提案することも多いし、システム構築に向かうこともこれから続けていけば何度もあるだろう。

 

統計コンサルタントという、どこか特化し過ぎな名称は、「会社組織に頼むほどではない小さな個別具体的な依頼を、分からないことをなんでも教えてくれる数学の先生のような感覚で受けますよ」というシグナリングなのだと僕は理解している(海外だと、博士課程生の統計手法の妥当性を検証するなどしている人などが多いらしい)。大きな企業ではできない落ち穂拾いをしますよ、という表明なのだと思う。

 

議論が拡散するので、以下では依頼者の問題を解決するためのベストな手法が、ほんとうに統計的なものだったと仮定して話を進める。

 

統計コンサルタント(以下「分析者」)の業務は、依頼者(統計的な問題を抱えており、多くはデータを提供する主体)と協力者と分析者である自分自身を中心に行われる。統計コンサルタントは数理的な理解に特化していることが多いため、協力者としてエンジニアが付くことが多いと理解している。そのほかにも、データの理解に必要な業務知識を依頼者が持っていない場合、協力者としてその分野の専門家が付くこともある。

 

僕が考えてみたいのは、

  • その利害局面において、分析者は『戦略がすべて』に
    出てくるような「儲ける仕組み」に関わっているか?
  • 分析者が関われるとしたら、どう関わるのが最善なのか?

ということである。

 

まず前提として、単純に数理的な問題に矮小化して解く、たとえばニューラルネットワークのパラメータの最適化を通してリコメンドエンジンの予測精度を上げる、と言ったようなことは、同書で指摘されているように学習可能なスキルとして近いうちにコモディティ化することは間違いないだろう

 

現在私は大学で開催されている機械学習の勉強会に参加しているが、「1年前までまったく機械学習やったことないです><」みたいな友人の理系生(地学専攻)が早くも予測精度で参加者内でトップクラスの精度を出しているのを見て、驚いた。本人曰く、金魚を育てるみたいで楽しいらしい。コードを見させてもらったが、今年論文で出たばかりの確率的最適化手法も普通に自分で実装していた。分析者の業務を、単なる(研究レベルではない)数理最適化と捉えると、理系修士学生が1年程度で身につけられるものに等しい。彼らは普段の研究で、それより遥かに多くの労力を投下している。

 

だから、分析者がもし儲ける仕組みに関われるとしたら、そのようなコンビニバイト的コモディティ作業ではないことは確かだ。

 

ただ、ここで少し同書とは異なる現象が生じる。

 

同書では暗黙に「コモディティスキルを磨いても儲ける仕組み側に回ることには役立てにくい(「たいていの学習可能なスキルは高報酬につながらない」、48ページ)」と仮定している。

 

 

だが、分析は性質上、儲ける仕組みに入り込みうる業務である

その顕著な例は、リコメンドエンジンである。

 

リコメンドエンジンは、「口が上手く24時間連続で働ける営業人材を格安で雇う」ようなものなので、言ってみれば儲ける仕組みそのものであるとも言える。固定でリコメンド欄を作っていた時と比べると、その欄からの流入による売上が100%以上増加(しかも元々の絶対金額もかなり大きい)みたいな話も聞いたことがある。RTB(リアルタイムビッディング)などにもその傾向がある。

 

そのような場合、増加量の何%かを分析者の収入に充てると言えば、マジで僕はいまここで大学をイグジットしてもいいんじゃないか説すら出てくる。もう科学はいい。外国で3匹のゴールデンレトリバーに囲まれながら送る余生にゴールしたい。そのような世界線があってもいいじゃないか。エンジンで15億の売上増加があったんなら、8%で1.2億貰ってもいいじゃないか*1

 

 

しかし、そのようなリスク変動型報酬を受けている分析者の話は僕は聞かない。

 

 

それは本人が誰にも言わないからかもしれない。だが、僕は違うと思う。おそらく、汎用リコメンドパッケージという競合の存在のせいだろう機械学習、その破壊的な可能性に気づいていますかみたいな感じの売り文句で会社の受付に登場して、「コピー可能な分析者」で勝負を仕掛けてくるプレイヤーがいるわけだ。優秀な分析者が作ったエンジンと比べると、彼ら汎用パッケージ集団のエンジンはまだまだ弱いし、原理的に言って今後も超えることはないと思っているが、それでも分析者の報酬のベースラインを下げることには多大に貢献しているだろう。手動で作ったときに、パッケージに比べて5%リコメンドCVRが上がったとしても、ボーナス程度の貢献にしかならないだろう。

 

ここまでの検討によると、「分析者は儲かる仕組み(規模の経済など)に無視できない影響量をおよぼすが、しかしコモディティ化の荒波にも侵食されている」とまとめられそうではある。だが、ここまでの書き方からしても分かるように、明らかにサンプル数が足りていない。

 

恐らく分析者の関わり方として宜しいのは、契約条件自体から交渉することだろう。リコメンドエンジンは分析者が関わる業務のごくごく一例に過ぎない。依頼者の状況や、協力者の関係、自身のスキルセットの特質によって、検討の価値はありそうだということまでは示唆が出た。ぼたもち先生がリスク変動型報酬で人生をイグジットして、クーバース犬だけのドッグカフェを作る未来にご期待ください。

 

 

戦略がすべて (新潮新書)

戦略がすべて (新潮新書)

 

 

*1:そんな高い手数料率が成立するわけないだろ、という反論は受け付けません

知能とは何だろう

 

知能の定義について

 

 Intelligence is really not going to be something that we ever succeed in defining in a succinct and singular way. It's really this whole constellation of different capabilities that, um, you know, all kind of, are beautifully orchestrated and working together.

(拙訳:知能は、私たち人間が簡潔かつ一意に定義することができるようなものではなかったし、これからもそうだろう。知能とは、「さまざまな」能力の集合が ... いや、もっと踏み込んで言えば ... 「あらゆる種類の」能力が、美しく組み合わさって働くことだ。)

(Googleのプロモーションビデオより引用)

 

 

人工知能について面白い事実のひとつは、作ろうとしている「知能」とは何なのかが正確に定義されていないことだ。 正確に把握していないのに人工的に作成を目指す。はじまりからして実に大きな論点を抱えたプロジェクトなわけである。

 

これは、別に揶揄をしているわけではない。正確に把握していなければ作ってはいけないという固定観念や先入観こそが、むしろ人々の考える妨げとなっている。年配のとある人工知能研究者によれば、かつてはコンパイラ*1すら人工知能として呼ばれ、研究されていたらしい。そのことを踏まえると、人工知能とは、それぞれの時代時代の人々が成し遂げて欲しいと夢見る希望のなかで、それを成し遂げるだろう知的な存在のイメージの総称なのかもしれない。

 

だから、必然的に人工知能には、あらゆるひとびとが妄想した好き放題の夢が集まってくることになる。Deep Learningを使って売上を2倍に伸ばしたい、自分では思いつかない良いアイデアをアイデア生成システムに出して欲しい、プログラマを雇うのはカネがかかるから自動生成する人工知能を作って欲しい。その多くはいつまでも体現されることなく夢のままで終わる。

 

このような視点から考えると、人工知能という存在は、コンサルタントの人たちが重視するような「地頭」や「賢さ」とはまるで異なる文脈に存在することになる。類義語ではないのだ。「地頭」や「賢さ」は決して夢の掃き溜めではなく、アナログな計算機としての希少なスペックを意味する。理解力、表現力、交渉力、決断力、企画力、発想力などと「力(大きさとして表される一種のスカラー値)」で総称されるそれは、いまのところまだ人工知能にdisruptionされる可能性はまずない。あくまでもビジネスや生活を効率的にしたり楽しくしたりしてくれる、資源の一つである。

 

以下では「人間の知能の特質」について考えるが、僕は脳科学について全く知識がなく、構成的理解(実際に作ってみて動いたら、その原理が他の同じ動作をするものにもある程度共通すると判断すること)を信奉している人間である。なのでNeural Networkに対する理解を、人間の脳の理解に結びつけているアレなきらいがある。

 

 

 

 

人間の知能の特質について

 

ある人工知能研究者が、人間の「意識」について面白い意見を述べていた。

 

「私の考えでは、特徴量を生成していく段階で思考する必要があり、その中で自分自身の状態を再帰的に認識すること、つまり自分が考えているということを自分でわかっているという「入れ子構造」が無限に続くこと、その際、それを「意識」と読んでもいいような状態が出現するのではないかと思う。」

(『人工知能は人間を超えるか』、松尾豊、2014、location 589 / 2665 )

 

この意見を踏まえたうえで、人間が理解することについて書かれた以下の記述を読むと、すこし考える時間が欲しくなる。

 

If you're still having trouble, skip ahead to examples. This may contradict what you have been told -- that mathematics is sequential, and that you must understand each sentence  before going on to the next. In reality, although mathematical writing is necessarily sequential, mathematical understanding is not: you (and the experts) never understand perfectly up to some point and not at all beyond. The "beyond", where understanding is only partial, is an essential part of the motivation and the conceptual background of the "here and now." You may often (perhaps usually) find that when you return to something you left half-understood, it will have become clear in the light of the further things you have studied, even though the further things are themselves obscure.

Many students are very uncomfortable in this state of partial understanding, like a beginning rock climber who wants to be in stable equillibrium at all times. To learn effectively one must be willing to leave the cocoon of equillibrium. So if you don't understand something perfectly, go on ahead and then circle back.

 

(意訳:もし(定理が)理解できなかったら、まず例を見よう。この戦略は先生が今までしていた指示と違うかもしれない。先生は、「数学というのは仮定と結論の記述が一列に並んでいるものだ。したがって、ひとつのセンテンスを理解するまで、次のセンテンスに進んではならない」と言っていただろう。

 

 残念ながら、実際には、書かれている数式はそのような並びになっているが、その数式をどの順番で理解するかはそんな風に綺麗な一列になっているわけではない。すなわち、あなたも専門家も、0%の理解をしている部分を100%の理解をした部分にしていく、という風には決して読み進めていないのだ。「理解が100%でない部分」がある状態であるために、あなたは読み進める動機を持つ。そしてその状態は、今現在のあなたが数学の概念に対して備えている知識の様子を表している。

 

 あなたは「なんとなく理解したままで放っておいた内容が、別の難しい内容を踏まえて読みなおすと、よりクリアに理解できる」、ということを、10回に6回、あるいは10回に8回くらいの頻度で経験したことがあるだろう。難しい内容のほうは未だ意味不明であるにも関わらず、だ。 

 

 多くの学生は、このような微妙にしか理解していない状態を嫌う。まるで、ロッククライミングの初心者が、常に安定した姿勢を保持したいと思っているかのようだ。効率的に学ぶためには、そのような平衡状態という繭から脱け出す必要がある。何かを完璧には理解できなかったら、前に進んだあとで、戻ってきなさい。)

 

("Vector Calculus, Linear Algebra, and Differential Forms", Hubbard et al. , 2002, pp. 1- 2)

 

数学という、順次アクセスで論理的には完全理解が可能なはずの構造が、人間にはそうは理解できないというのはtrivialな話ではなく、「そもそも我々の知能の実現方法は事後的に逐次でない」というファクトを示唆している。

 

電子計算機と比較した場合の人間の知能の特質として、同じはずのデータ(記憶)に何度もアクセスするとそのデータが変質すること(忘却、誤認、合理化、再解釈、他のものと結びつけての理解など)が挙げられると思う。これは、Neural Networkとの比較で言えば、層間結合の強さを表す重みwが(生体的な機構によるバイアス付きで)更新されていくことに近い。誤差関数値を最小化する以外の目的でも、更新が行われているのだろう。

 

となると、人間が「自分がやりたいけど(生体的に、物理的に)できない夢」を託した人工知能が、再帰的で類似する構造にその機能を託すのは、ある種自然なことのように思えてくる。

 

 

もし知能を定義するなら、何を解いているのか?

 

以上の二点を踏まえて知能とは計算である(intelligence is computation)と僕は判断している。

 

人間が達成を願うものの多くは、何らかの関数の最小化問題に定式化できる(物流コストの最小化、生活満足度を考慮したうえでの内臓脂肪の最小化など)。

 

それらは1次元スカラー値の最小化問題と考えると、xy平面に表せるくらいに単純だが、少なくとも最小化している値は同時に無数にある。また、人間はそこまで最小化に意義を求めない(内臓脂肪が0.0000000000000001%や0.0000000000000002%ズレていてもどうでもいい)ため、少なくとも最適化は(寿命を定義域として)途中で止まっている。あるいは、その最小化する関数自体が、時間に応じて別のものに更新されている(交際相手との良い関係を願っていた人が心変わりするなど)。最小化を実現するための機構も、最初に述べたように、簡潔に述べられるようなものではない。

 

いつか計算する機構が我々を実現したとき、我々人間の存在意義というのは、再現する前に動いていたこと、その一点に尽きるのではないだろうか。その意味で人間の生活というものは、不合理が一杯あって、単なる定式化された問題より豊かであると思う。ただ、その豊かさにいちいち付き合いたくはないとも思う。

*1:プログラミング言語を一意に解釈するプログラム。機械にやってほしいことを人間が明確に指示して、機械がそれを理解するために必要な道具

專攻分野が決まらない高校生への計算機科学のすすめ

 

この記事は、「自分が気になることは、どの学問も同じくらい扱っている気がして、專攻を決められない」と悩んでいる高校3年生の男の子と話した内容を基に書かれました。

とても長いので、1回で読み切ろうとしないほうが良いかもしれません。

 

ポイントを4つにまとめると、以下のことを言っています:

・大学で学ぶべきは、実際に役立つ知識である。
・知識に基づいた実行の成果量によって、どれだけ役立ったかが決まる
・成果量の向上の出発点として、圧倒的に強力な道具であるコンピュータを專攻するのが最も妥当である
・…と、文系から情報系に転向して3年が経った今では後輩には薦められる。それは自己正当化のためかもしれないので、判断は自分でしてほしい 

 

1.大学という研究機関の意義

 


"Science is a system for accumulating reliable knowledge."
(科学とは、信頼できる知識を蓄積するための体系だ)

("Writing for Computer Science", p.1, Justin Zobel, springer)

 

 

高校生のときに学校の先生は教えてくれなかったでしょうが、
大学は研究というものを行うための施設(研究施設)です。

 

たぶん正しいと思われる知識(法則や体系など)を新しく増やしていく行為のことを、大学では学術研究、略して研究と呼んでいます。学術研究は、「夏休みの研究」と言ったときの「研究(何回も観察したり調べたりすること)」とは意味が違うので、注意してください。新しい知識を発見することが目的でなければ、それは大学においては研究(学術研究)ではないと言えるでしょう。学術研究をする人のことを、研究者と言います。

 

研究がいくつか行われた結果として、間違っていそうな知識が外されて、正しそうな知識が再選される過程まで含めると、ふつうは科学と言います。科学とは、誤りの「無い」真理は手に入りそうもないけれど、少しでも誤りの「少ない」知識に手を伸ばす動作、とも言い換えられます。

 

大学は研究者が活動する研究機関なのに、研究者になるつもりではない人もたくさん入学します。そのような人たちは、本人の意図はどうにせよ研究や科学の二次的な恩恵を受けに来ていると言えるでしょう。大学の授業で講師が話す内容や使うテキストは、将来の研究者を育てるために選びぬかれたものなので、科学の成果が凝縮された大切な1片だと言えます。たまに企業の人が来てウチの会社はすごいんだと宣伝していくだけの授業もありますが、テレビ番組におけるCMのようなものなので、気にしないでください。

 

科学で扱われる内容は、何の検閲もされていないネットメディアや、何となく日常で過ごしてたら発見できる眉唾ものの法則と違い、誤りが少ないので、優先順位からすると知る価値が高いと言えます。大学生たちは、研究者になるつもりではない人も含めて、正しそうなことをできるだけ早く知ることによって、この不確実な世界における支えを手に入れようとしています。

 

一言で言えば、大学は、研究者になる人にもならない人にも、価値ある知識を与えることに成功しています。

 


2.大学の限界

 

Human knowledge and human power meet in one; for where the cause is not known the effect cannot be produced. Nature to be commanded must be obeyed; and that which in contemplation is as the cause is in operation as the rule."
(人間の知識が、支配力と全く同じものに変容する瞬間がある、というのも発生原理を知らなければ結果は再生産できないから。自然は、これに従うことによってしか従わせることのできないものであり、認識された「発生原理」をうまく制御することで、ほぼ思い通りに動かせる。)
(帰納法の先駆者であるフランシス・ベーコンの著書より)

 

 

知識は蓄積することだけが目的ではありません。それは大学にとっても、それぞれの学生にとってもそうです。知識の目的は、それを使って何か決定を下すこと、下した決定に沿って実行することにあります。信頼できる(=現実で使っても矛盾しない)知識を獲得したことの威力は、実際に実行してみて、ビックリするほど思い通りに対象が動きだしたときに、初めて感じられます。

 

上述したとおり、大学は正しい知識の伝授という点においては一流ですが、それらの知識を活用した、いちばん良い意思決定の仕方や、実行の仕方についてはあまり体験できません。

 

社会や団体レベルの実行は、政策や規則の施行(増税や救急機器の設置義務化)、あるいは規則的な現象を起こす物体の設置(新国立競技場の建設やリニアモーターカーの敷設など)というかたちで、個人レベルの実行は、具体的な行動のかたち(雇用契約の締結や、有識者への売り込みなど)を取ります。

 

しかし、大学が知識蓄積を本義とする組織であるのだとしたら、どうやって上に書いたような個人/団体/社会レベルの意思決定や実行に取り組んでいけばよいのでしょうか。

一つのアプローチは、実行については実行力を持つ企業や政府と、すなわち産官学で協力する、というものです。

 

このような背景によって、研究者にならず就職した学生だけでなく、研究者として就職した学生も、最終的には企業と関わることになっています。

 


3.成果の普及インパク

 

"The future is already here — it's just not very evenly distributed."
(未来は既に現在に存在するーー普及していないだけだ。)
(SF作家であるウィリアム・ギブソンの警句)

 

2014年に年間で数兆回の検索を実行しているIT企業Googleは、創業者ラリー・ペイジが大学院生だったころに書いた1998年の論文の技術を基盤にしています。彼は執筆の同年に大学を休学し、Googleを創業しました。

 

2006年にジェフリー・ヒントンという大学教授によって書かれたとある人工知能の論文は、大して注目されることもなく知識の山の中に埋もれました。しかし2012年、彼の技術を利用したプログラムが、画像認識の世界大会で、常識から考えたらありえないほどのぶっちぎりで優勝したことで、論文に記述されたその技術が一躍脚光を浴びることになりました。同年に彼は会社を立ち上げ、その翌年の3月にはGoogleに買収されました。現在、その技術はAndroid携帯の音声検索に用いられています。

 

これらの2つのニュースが示唆しているのは、大学という研究機関単体では実行まで完了できないという事実、大規模な社会での成果は企業体による応用に任せられているという事実です。あなたが研究者にならないとしても、研究機関で獲得した知識は企業でこそ最大に活きるはずだということです(枯れた技術の水平思考ということばも存在するくらいです)。

ヒントンが所属していたトロント大学は、06年に既に技術を手にしていたはずなのに、その可能性に12年まで気付かなかった。のちに10億台のAndroid携帯に搭載されるような技術に。もっと歴史を遡れば、06年に発見されたアイデアに近いような論文は1979年時点で既に記録されてはいます。

 

知識を蓄積するだけの時代は、もう終わっています。
研究成果が世界のどこまで普及するのか、その一点に意義が集中しています。

 

一番ひどい例になると、ある種の学問(学問の方法論)は知識をただ蓄積するだけで、何の決定も実行もしません。どんなことでも、実際にやってみると思っていたのとは違った、ということはありますが、その「ある種の学問」は実際にやってみることすらしないのです。実際にやってみたら、貯めてきた知識が全否定されることがあってもおかしくないのに、そんなリスクを想像することすらなく、ただただ知識を深めていくだけの学問というのが、現在の大学には存在します。多くの企業や研究機関の注目が集まる分野の論文ですら、応用を実際にやってみせるまで6年間埋もれ続けていたことを忘れてはいけないと思います。況や他分野をや。

 

実際にはその研究がやっていることは新しくも何ともなかったり、その研究の成果とされていることは実際に現実で運用してみるとまったく効果を発揮しなかったりするのに、「この知識には価値がある、ある、ある」と勘違いして、熱意と勢いと伝統だけで研究しているように見せかける、追放すべき絶対悪です。
 2015年の現在には、研究というのは思いついても「既に誰かがやっている」ことが大半です。ましてや、2,3言語程度でしか情報にアクセスしていない学部生がちょっと考えて出したぐらいのアイデアなんて、とっくの昔に研究され尽くされているか、実際には動きません。

 

かつては、思想を広めることが大きなインパクトを持っていた時代がありました。
時代の思想に従い、制度を定めた国もありました。

 

嗜好が多様化した現代においては、全人類が同じプロパガンダを持つことは考えにくいです。無印良品を通してブランドの思想に馴染んでいく、それは確かにあるでしょうが、その人数が決してマスの規模に辿り着くことはないでしょう。世の中は、本当にこんな考えが好きな人がいるのか、という人たちでバラバラになっています。

 

Android携帯への「思想」のインストールは短時間で済み、それらは完全に同一です。そして、Androidは命令した通りに動きます。

 

 

4.電子計算機の普及後の、資本主義での人間観

 

"就職して1年くらいすると,僕はプログラムが書けるものですから,エクセルとかでもマクロを組んで,自分の仕事のかなりの部分を自動化していました。他の先輩が2~3日かけてやる仕事を,僕はボタンをポチって押したら終わるみたいな。で,余った時間で何してたらええんや!と持てあましてたので,業務時間中にこっそりとゲームライブラリを書き始めたんです"
(プロ棋士に勝った将棋プログラムの作者の対談記事より)

 

 

コンピュータは、「昔からある研究」の価値をまるっきり変えてしまいました。

 

昔は、中国の歴史書に出てくる「塩」という字を時系列で追う研究は、何年かけても研究になりました。現在その類の研究は30秒もあれば終了します。

 

もちろん、実際にはテキストを電子化したり、内容を解釈する時間があるので、そんな単純には行きません。しかし、どれだけ少なく見積もっても研究のスピード感は少なくとも10倍は早くなり、結果として研究のコストパフォーマンスはまるで変わってしまいました。現代にそのような研究で数年間ぶんの研究費を獲得するのは、ほぼ不可能といってよいでしょう。そのような研究をやりたければ、検索用のソフトウェアを企業に外注して、数ヶ月規模の研究としてプランを組むのではないでしょうか。

 

そして、研究に必要な道具も驚くほど変わってしまいました。テキストの電子化の際にはハイパーテキストを学ぶ(実際、文学部でXMLファイル形式について講義しているのを見たことがあります)、電子化困難な写本は画像にしてiPadで閲覧する、文章の特徴を推定する際にも電子テキストに対する統計的手法が役立つ、授業中はアプリ辞書で用例をチェックするといった具合です。

 

政治学科では、政策の効果を分析するために仮説検定や重回帰分析による統計解析を行います。経済学部では、取引の9割がコンピュータによる自動取引だとも噂される株価の形成過程について仮説を立てて検証しているのではないでしょうか(こちらは詳しくないのであくまで想像です)。その際に計算機によるシミュレーションを使うこともあるでしょう。僕の友人は排出ガス規制を定めた国際条約における「公平」を調べるために、C言語数値計算をしていました。

 

これらの計算をする際にコンピュータは実質不可欠です。

 

この話は、研究(新しい知識の発見)に限らず、あらゆる労働にとってあてはまります
私たちは実際のところ、図式的には、どの作業をコンピュータに任せることができるかというのを各自が判断して、任せられない部分をブツブツ言いながらこなすアナログ計算機の役割を果たしています。


コンピュータに任せられることをたくさん知っている人は、それを力にして、うまくなまけることができています。
コンピュータに任せられないことのうち、高給な仕事を知っている人は、それを力にして、ほかの仕事と大して変わらない業務内容でたくさんの給料を貰っています。

 

あなたはアナログ計算機であり、電子計算機ができない処理を行う存在です。
その上で、コンピュータにどの仕事を任せられるのか判断に自信が持てない場合は、
計算機科学(情報科学)を専攻するか、せめて專攻する友達を作ることを強くお勧めします。

 

私は別に、計算機科学者になるべきだと言っているわけではありません。第二次世界大戦中に急に登場して1世紀以内に何もかも変えた計算機の「科学」を開始点として、もう一度自分がやりたいことを見なおして欲しいということです。

 

(最終章)5.学部教育による世界観の固定化

 

 

「率直に言って、一流の小学校、中学、高校、大学、大学院に行った方が良いです。初期に配られるカードが全く違うので。大人は、これははっきり教えた方が親切だと思います。すでにカードが配られている人に逆転の可能性を説くのはそれはそれで意味がありますが、これからの人に誤解を与えるのは罪です」

(京都大学客員准教授の瀧本哲史bot、2013年11月4日)

 

 

計算機科学なんて全く関わらずとも社会的に成功した人は山ほどいます。
でもだからといってこのカードをこれからの人に配らないのは罪です。
一流のツールと一流の思考法に出会うチャンスを、初めから潰しています。

 

学部教育は、あなたの意思決定に生涯影響を持ち続ける価値観の形成に、重大な影響を及ぼします。私がこんな記事を書いていることがその証左です。

 

私は、他国の言語をたくさん学ぼうと思って大学に入学しました。
文学部志望でした。

 

2年間の一般教養で考えるところがあり、賭ける思いでコンピュータ科学に專攻を変えました。数学は苦手でした。プログラミングは素人でした。

 

理系からストレートで計算機科学をやってきた子は、こんな記事を書きません。
彼らは文系に比べて自分たちが遥かに強力な、知識をあっという間に力に変えられるという意味で強力な、一流の知識の束を学び、実際にプログラムを書くという形で意思決定し、実行しているということを、ふつうのことだと思っているからです。むしろ宿題に忙殺されていて、それどころではありません。

 

コンピュータをうまく使えない後輩など、問題の数に入りません。

 

 

信頼できる知識をいちばん蓄積しやすい計算機科学における知識の増加スピードは、世界全体で見ても個人の頭のなかで見ても他の比ではありません。作業スピードが10倍になるようなツールを1つ知っただけで満足なのに、そのようなツールが次々に現れてきます。2013年のある論文では数日かかっていた計算について、同じ年の終わりには2時間以内に終わる方法が見つかって別の論文で報告されていました

 

 

 

時間がかかるはずだった作業を手早く済ませられるようになった。
空き時間ができた。
ではこの時間で、人々や自分を悩ませているどの問題なら解けるだろうか。

どの問題なら計算機で解けて、どの問題は人手が必要だろうか、…?

 

 

 …

 


以上が、文系から情報系に転向して3年経った学部生である私が、
後輩に向けて伝えられる意見です。

 

ここで述べられた意見を説得力のあるものだとみなすか、キャリアの自己正当化のために書かれた視野の狭い誤解だらけの偏見だとみなすかは、專攻を決めるみなさん自身が判断して下さい。

 

 

 

 


参考動画
ハーバード大学における、文系向けComputer Scienceの入門授業であるCS50。日本ではコンピュータ・サイエンスはダサい・暗い・チマいといったイメージが強いように思いますが、こんな現代的なノリの文化も海外にはあります)