蛍光ペンの交差点

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すーがくってなんだろう

いくつか気になったものをメモメモ

 

 

古い時代の数学では「空間」は日常生活において観察される三次元空間の幾何学的抽象化であった。ユークリッド(紀元前300年頃)以来、公理的手法を主要な道具とした研究が行われていた。デカルトにより、座標を用いる方法(解析幾何学)が導入されるのは1637年のことである[1]。このころは幾何学の定理というものは、自然科学における主題同様に、直観と理屈を通して知ることのできる絶対的で実在の真実として扱われていた[2]し、公理というものは定義の言外において疑いようのない事実として扱われていた[3]

 

ユークリッド幾何射影幾何[4]との関係は、数学的対象がその「構造によって」与えられるものではないということを示すものになっている[5]。それどころか、各数学理論は、その対象が持つ「ある種の」性質によって(正確には、それらが満たす理論の基礎となる公理によって)記述される[6]のである。

 

射影幾何の公理には、距離や角度といったものは述べられていないから、従って射影幾何学の定理にそれらが現れることもない。故に「三角形の内角の和はいくらか」という問いはユークリッド幾何学では意味を持つが射影幾何学においてはまったく意味を成さない。

 

19世紀には別な状況が現れる。「三角形内角の和」がきちんと定義できるにもかかわらず、それが古典的な幾何学における値(つまり180度)と異なるような幾何学が出現するのである。そのような幾何学としての双曲的非ユークリッド幾何は、1829年ロバチェフスキーが、1832年ボヤイが(また非公表であったけれども、1816年にガウスが)導入した[4] 幾何で、そこでは三角形の内角の和が180度よりも常に小さくなる。

 

このような発見から、ユークリッド幾何こそが絶対的な真理であるという主張は放棄せざるを得なくなり、幾何学の公理は「疑いようのない事実」でも「定義の含意」でもない、仮説にすぎないことが明らかとなった。つまり、「経験的実在に対応する幾何学の範囲はどのようなものか」という物理学的に重要な問いは数学にとっては何の重要性ももたないものとなったのである。ただし、「幾何学」が経験的実在と対応しないとしても、幾何学の定理は「数学的な真実」であることに変わりはない[3]

 

 1854年、リーマンの有名な就任講演によれば、n 個の実数でパラメータ付けられた任意の数学的対象は、そのような対象全体の成す n-次元空間の点として扱うことができる[12]現代の数学者はこの考え方をごく普通に踏襲し、さらに強力に推し進めて古典幾何学の用語法をほとんどどこにでも用いる[11]

 

この手法の一般性を十分に理解するためには、数学というものが「数や、量あるいはそれらの描像の組み合わせではなく、思考の対象をこそ目的とする、純粋に形式の理論」[details 1]であることに注意する必要がある[5]

 

(Wikipedia、空間(数学)より引用。太字や赤字は僕によるもの) 

 

 

「n次元ベクトル」を元とする線形「空間」を現代の線形代数学では当たり前のように扱うけれど、それは1854年の時点ではそんな感じで新しいことだったようだ。

 

 

第三階層の分類 (third level of classification) は、大まかに言えば(第一階層に準じて意味を成す)問いとして「可能な全て」についての答えを勘案するものである。例えばこの階層で、次元が異なる空間はどれも互いに区別することができるが、二次元ユークリッド平面として扱われる三次元ユークリッド空間内の平面と、やはり二次元ユークリッド平面として扱われる実数の対全体の成す集合とはこの階層で区別することはできない。同様に、同じ非ユークリッド空間の異なるユークリッド模型もこの階層で区別することはできない。

 

(出典同じ)

 

数学は、定理や定義を一つ一つ見ていくと、案外(最初に心に抱いた)イメージと異なる状況を扱っていることが多い、と感じるようになった。(1,2)や(2,3)などの「実数の対」全体の成す集合と、二次元ユークリッド平面は、最初はそんなに同一視できないと個人的には思う。

 

日常で培われたイメージで考えてしまうと、前者は(りんご1個、みかん2個)のようなカウントの全てのパターンの集まり、後者はだだっ広い一枚のシートのように思えてしまって、同一視できない。そのようなイメージを剥ぎとって、集合の元という観点だけからボトムアップ式に考えていく必要がある。

 

  演繹(deduction) 演繹ではない推論(広い意味での帰納 induction)
枚挙的帰納法(狭義の帰納 アナロジー(類推) アブダクション(仮説形成)
<前提1>
 AならばB、である。

<前提2>
 Aである。


<結論>
 Bである。
<前提1>
 a1はPである。

<前提2>
 a2もPである。


<結論>
 (たぶん)全てのaはPである。
<前提1>
 aはPである。

<前提2>
 bはaと似ている。


<結論>
 (たぶん)bはPである。
<前提1>
 aである。

<前提2>
 Hと仮定すると、aがうまく説明される。


<結論>
 (たぶん)Hである。
情報量 増えない。
(結論の内容は全て前提の内容に含まれている)
増える。
(結論は、前提に含まれていた内容を超える内容を持つ)
真理保存性
妥当な演繹的推論は、前提が正しければ(健全であれば)、必ず結論は正しい)
×
(前提が正しくても、結論の正しさは保証されない)

 

 (帰納 - Wikipediaから引用)

 

 

数学において、全てが演繹である、ということの重みを見逃すと、いつまでたってもゲームの性質を掴めない。情報は公理や前提として出されたところから増えないが、定理や式などの、より明示的なかたちで明らかになっていく。こんなことは日常生活、すなわち帰納的な営みの中では通用しないルールだ。

 

生活では経験を積む度に「常識」や「傾向」がどんどん増えていって、多くの「正しいこと」と結構な数の「誤っていること」が蓄積されていく。そして、いろんな証拠でもって、すこしでも誤りを減らしていく。

 

数学はそれとはまったく違うゲームである。帰納的に作ってしまったイメージ、たとえば「空間」などに含まれる誤りを、定理などの証明を一つずつ見ながら少しずつ修正していく点は似ているかもしれない。でも、自分の頭の中からではなく、公理や定義の間から出てくる事実が全て正しいという点は非常に特異だ。

 

 

 

そのほかにきになること

 

  • 群や環、体といった抽象代数学のことばが、これほど取り沙汰されるようになったのは、簡潔な表現力が強いからなのだろうか?
  • 数学における概念表現がどれくらい加速しているのか、調査はあるのだろうか?