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蛍光ペンの交差点[別館]

"どの点に関心をもつべきか ―をわれわれが学びとるのは,もっぱら仮説からだけである"

受験と学問と研究は本当に違うゲームなのか?(かきかけ)

―― 本日は、東大を卒業されている先生に東大新入生に向けてのアドバイスをお話しいただきたいです。

瀧本 まず受験と大学生活、就活は非連続であるという前提を知る必要があります。大学入試というのは採点しやすいように答えが一意に決まっていて、時間をかければ誰だってできるようになるものです。だから時間の制限がある中で及第点に達することを目指すゲームです。

しかし、これからは違います。大学では自分で問いを立てて答えを探していかなければなりません。 みんながやっていることにとりあえず合わせるなんてしていてもダメです。もちろん、それで何とか凌ぐことも可能ですが、今度は就活、社会に出て、あるいは研究をしようとしたところで、より苦労することになります。

ここで、東大生にとって不幸なのは”進振り”があること。これは受験と全く同じゲームなので、こちらに最適化してしまうと、間違った方向で癖がついてしてしまうわけです。

 ( 受験と大学生活は別のゲームであると理解せよ 瀧本哲史さんインタビュー - 東大新聞オンライン )

 

多くの人は、大学受験と「大学入学後の学部4年間における勉強」(異論もあるだろうが「学問」と表記する)は全く異質なルールに基づいたものだと認識している。更には主に講義を受けたり議論するだけの学問と新しい知識を創りだす研究も非連続なものだと認識している。

 

しかしその認識自体が実はまだ再考の余地があるのではないか、とふと疑問に思った。

 

まず、「最終提出物(deliverables)」を比べてみる。

 

大学受験の最終提出物はなんだろう?これは分かりやすい。第1志望のXYZ大学における本番試験の答案だ。併願大学もあるだろうが第1志望に合格すれば全落ちしても何の問題もない。すなわち最終提出物の質は「第1志望の合格点を超えているか・いないか」という2値で評価される。それに比べたら残りの提出物は瑣末なものであり、何ならすべて白紙でも構わない。現に私の予備校時代の英語講師は私立の受験費でパフェを食べに行っていた(その人は第1志望である東大の文科3類に合格した)。

 

学問の最終提出物はなんだろう?これは一意に定めるのが難しい。卒業単位の確保は重要だが、誰もそれが大学での学問の最終提出物だとは同意しない。

 

なので、先に研究の最終提出物を考えてみよう。これも受験と同じく明確だ。人類がまだ知らない知識の有効性を述べた論文だ。化合物やマイクロ波、あるいはアルゴリズム市場メカニズム、法制度や政治体制など、知識の対象は何でもいい。研究者は論文という文字を書いているだけで給料が払われる特殊な物書きであり、対象が何かよりもそれが人類の未来にとってどれほど重要なのか、のほうが本質である。

 

さて、日本では多くの大学生が学部4年生で「卒業研究」という形で初めて研究を経験するように、学問は大学受験と研究の間に位置する。その配置を踏まえると、

  • 大学入試の本番試験で書いた合格点以上の文章
  • 人類がまだ知らない知識の有効性を述べた文章

学問の最終提出物は、この間にあるのではないかという気もする。

 

だが、一方で大学合格者の全員が研究者になるわけではない。卒業研究を課さずに学部課程を修了することもあり、その意味では

研究者にならない人にとって、
研究の最終提出物ぐらいの時期にあたるところには、
何が最終提出物として求められるのだろうか?


という疑問が沸く。図式にすると、以下のような感じだ。

 

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ここは意見が分かれる気もするので、あくまで私見を述べる。

 

僕の意見は、研究者以外の最終提出物は、「プロジェクトごとの最終成果物 x プロジェクト数」というものだ。ここで「プロジェクト」の定義は、プロジェクトマネジメントという業務を遂行している人たちが参考にしている、以下の書籍の定義に基づく。

 

A project is a temporary endeavor undertaken to create a unique product, service, or result. The temporary nature of projects indicates a definite beginning and end. The end is reached when the project's objectives have been achieved or when the project is terminated because its objectives will not or cannot be met, or when the need for the projet no longer exists. Temporary does not necessarily mean short in duration. Temporary does not generally apply to the product, service, or result created by the project; most projects are undertaken to create a lasting outcome. For example, a project to build a national monument will create a result expected to last centuries.

(拙訳:プロジェクトは、今までにない成果物を作るためになされる一時的な試行錯誤のことだ。「一時的な」というのは、明確な始まりと終わりがあるという意味を指す。目的とする最終成果物が提出されたときや、その成果物が作成不可能だと分かったとき、あるいは成果物が必要でなくなったときにプロジェクトは終わりとなる。「一時的な」は必ずしも期間が短いということは意味しない。「一時的な」は試行錯誤の期間を指すのであって、試行錯誤によって生み出された最終成果物には適用されない。むしろ、大半のプロジェクトは長くあるいは永続的に残る成果物を生み出すために遂行される。たとえば国家の記念碑を建てるプロジェクトでは数世紀のあいだ残るような記念碑を作るだろう)

 

(Project Management Body of Knowledge 4th Edition, p.5, 2008)

 

この意見は、かなり極論側である気もしている。というのもこの最終提出物の定義では、日常業務はプロジェクトの成果物に過ぎないと言い切っているに等しいからだ。たとえば新規事業の起ち上げというプロジェクトの成果物は新規事業のマネジメントになるだろう。

 

さて、以上の定義は、どことなく形容詞が研究者の最終成果物に似ている気がする。「今までにない(unique)」や「長く残る(lasting)」、あるいは始める瞬間に作成不可能だと分かるかが不明なことなどだ(ちなみに、受験もそうではないか、という気がする。誰も受験前に合格答案が作成不可能かは分からない)。

 

論文の成果は真理ではなく「より良い説明」程度であることの方が多いし、後続の論文によって知見が修正されるのは競合会社の優れた製品にシェアを奪われることに似ている気もする。引用数は取引先の数のように見えるし、自己引用(自分の論文を自分で引用すること)だけで構成されている論文は在庫の宇宙遊泳のような感覚を受けなくもない。

 

さて、こうして「今までにないプロジェクトを遂行する社会人」という観点で見てみると、実は研究者と社会人は大差がないようにも見える。

 

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先で交わる?と書いたが、むしろ「前段階は分かれているのか?」と言ったほうがよいくらいだ。研究者がやっていることはプロジェクトではないと言えるのか?と問いを立ててみてもいいくらいだ。どの研究テーマも、研究者が集まって、最終成果物の大体のイメージを決めて、調査をしたり実験系を組んだりして、と、別に何ら作業としては社会人と比べて別段新しいことをしている訳ではない。単に成果物が新しいというだけだ。

 

そしてもしこのような意欲的なモデル化をするのであれば、実は学部4年間の最終提出物は研究者にとっても研究者以外にとっても役立つ何かではないか、という話が出てくる。そしてその思考を推し進めると、実際のところプロジェクトマネジメントという観点(いままでにないものを、確実につくるための方策)からは、受験と学問と研究は大して違いのない行為なのではないか?という論点も出てくる。

 

(つかれたので続きはまたこんどきがむいたときにかく)