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蛍光ペンの交差点[別館]

"どの点に関心をもつべきか ―をわれわれが学びとるのは,もっぱら仮説からだけである"

書くということ

僕にとって文章を書くことは、僕のなかでの重要な意味を持っている。高校のときからブログへの投稿数で数えれば1000以上の文章を書いてきた。

 

アウトプット(生成物)であることは間違いない。外に対して自分が感じた何かを表現したり、あるいは「こいつは貴重だ」と感じた文言や主張を反芻したりするために使ってきた(ような気がする)。数十時間かけて何度も推敲して書いた文章のことは何年経っても結構覚えているし、一度文章にすると人と話していてその話題になったときに結晶を差し出すように安心して話せる。自分の出せるなかでは最上のものなのだ、と自分で納得できている。話していて、自分のことばが辿り着く先がクリアに予測できて、きちんと狙い通りにそこに落とせる。人と話していると考えがまとまる、という経験があるが、それに加えて僕は書いていると考えがまとまる、ということを自然と経験して育ってきた。

 

僕にとって文章は売るものではない。あくまで自分の活動の中間生産物であって、上記のように普段の活動を明確化したり、重要なことを再確認したりするための手段に過ぎない。生計を立てる手段として考えたことは一度もないし、たまに友人から褒められて嬉しくなる、その程度の素人の手遊びにすぎない。

 

高校1年生のときから比べると、書く頻度は驚くほど減った。数十分の1程度になった。無駄な情報を書くことは嫌いだし、こういう文章を書いていてもあれこれ表現を消したくなる衝動に駆られる。筆が走るのに任せて書く、という友人の指針には一理あると思う一方で、一方で骨以外何も残さないぐらい質朴な文章にしたい嗜好もある。どちらが良いのかは今でもあまりよく分からない。こういう自分語りを読むのが好きな人は暇な人が多いから、少しぐらい助動詞が余分でも気にしないのかな、と最近は思ったりする。

 

誰に対して書いているのか、というのも実際あいまいなままである。高校時代は、僕を知らない人たちが読んでくれると一番正のフィードバックが生じていた。いまはネットが大衆化したせいもあって、半数ぐらいは知人だ。それが嫌だというわけではなく、高校生の僕はその開放性にどこか期待していたということなのだ。少なくとも僕にとってはそういうものだった。

 

英語で書けたら世界はどう映るだろう、と思うこともある。それにあと何年かかるだろうか。英語は現在は文法ミスで躓くレベルで、とてもじゃないが気持よく書けるレベルに達していない。人工知能機械翻訳で人間の翻訳作業は不要になって、はいはいそういう話はどうでも良くて、僕が単にそうしたいのだ。僕の個人的な感情や、感想や、記憶を、タイプという行為を通してタテモノみたいに構築し、できあがりの悪い作品のことは都合よく忘れて、そこそこよく書けた作品についてはどーよこれと鼻高々で得意気になる、そういうことをしたいのだ。

 

ここまで書いていて、ああそうか、文章を書くことは、

僕にとって趣味だったのだと初めて気がついた。