蛍光ペンの交差点[別館]

"どの点に関心をもつべきか ―をわれわれが学びとるのは,もっぱら仮説からだけである"

思考の歯磨き

内田樹は批判されることも多いが、彼の『日本辺境論』を読んだ時にとても腑に落ちて、そのまま今でも覚えている一つの主張がある。それは、本書の主張はこれまで別のところでも散々言われてきたことで何の目新しさもないが、歯磨きのように定期的に見直すことで価値が高まるものであるだろう、というものだ。

 

なるほど、確かに思想はただ一回の目新しさ以外にも評価軸がある。むしろ微視的には、内容ですらなく頻度が最重要だとすら受け止められる。思考について研究開発をする人たちは、よし俺は私は先行研究を踏まえて新規性と有効性を出しきったゾと満を持して次回作に移っていいのかもしれないが、読者は違う。私たちは本当に大切なことでも忘れてしまう。頻度の多い思考にダメなものが混ざっていると、その波に押し流されてしまう。歯磨きを、しなくなってしまう。

 

脳内思考は、書き手と読み手が全く同一という点で、極めて特徴的な情報である。日記も同様ではあるが、1日や1時間といったように規模が荒い。ミニ日記ことツイッターの玄人は5分単位で感情を記録するのかもしれないが広範囲に見られる現象ではない。よって、私には、脳内思考をメンテナンスすることはとても重要なことであるように思える。いわば思考の歯磨きである。

 

単語が集まって文を作り、文が集まって文章を作るように、とまでは行かないが、一日を終えた感想は(その日に)書き込んだ(「磨いた」)脳内思考(の列)に大きく左右される(ような印象を受ける)。たとえ同じできごとがあった日であってもだ。私たちは書き手として大きな責任を、また読み手として大きな影響を受けている。歯磨きについては標準化された歯科衛生士の指導を受けるのに、思考習慣については指導を受けないでよいのはなぜだろう?

 

いや、実際には教育(家庭も含むだろう)の中で指導を嫌というほど受けている。ものを見たときに、まずは覚えろと言われて育つ。常用漢字も九九も覚えていない段階では当たり前だ。だから私たちはいくつかの思考習慣を自動化させている。その次に理解しろと言われる。更には批判しろ、改善しろと言われる。社会に出ると、定期的な思考習慣のどれかが腐っていて、それを個別に治療されることもある。

 

歴史は、歯磨きのようには語られない。
ただ重要な事実が初出時を優先して要約されるのみである。
しかし生活は要約ではない。

 

歴史からは学べないここの空白で、ひとりひとりはどんな歯磨きをしているのだろうか。