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蛍光ペンの交差点[別館]

"どの点に関心をもつべきか ―をわれわれが学びとるのは,もっぱら仮説からだけである"

言語は私たちのツールか、それとも私たちもツールなのか

言語は目的を達成するためのツールである。
では私たち人間はツールではないのだろうか?

 

日本では高等教育まで夢を見て、高等教育から社会人前期に生計を確保しあるいは行動の原動力を確保し、一部は中盤から自己実現をはかる幸運に恵まれ、少数はそれを超えた社会的課題の解決に向かう、というのが私の「ジャパニーズ・ドリーム」的な時系列の理解である(最後の2つは並行することもある)。

 

後半の段階、自己実現を超えた瞬間の自覚が気になっている。
そのとき、自分(の幸せや満足感)は目的になっているだろうか?

 

人間は最大の寿命でも有史の1厘に満たず、有史もまた先史の1に及ばない。実現された空間のなかで考えれば普段目にする塵よりも遥かに小さな存在に過ぎず、言ってしまえば考える葦はそんなに実は大きくない。我々が最大の目標だと前提する道理は、人間のスケールを外して(「客観的」より「「さらに一段階抽象的」」に)考えれば、我々が普段道具や便宜としかみなさない退屈で意義のない物体と共通点を持っている。

 

ツールか目的か、というのは2つの物体間に生じる関係の端点それぞれを呼称しているに過ぎない。Aにとって目的のBは、Cにとってはツールであり、CもまたDにとってツールである、という連鎖からは逃れられない(もしDがあれば、だが)。

 

私は決してそれらのものに、人生の意義や人間の存在に、意味がないと言っているわけではない。ただ普段私たちが快適に過ごすためにツールをいじくるのと同様に、私たちもまたツールとして最適な構成・配置が考えられる、という話をしている。チームの話である。