蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

ONE to ZERO:敗北者ピーター・ティール

(以下の文章は、2015年2月20日に『蛍光ペンの交差点』本館に掲載したものです。)

 

偶然の縁があって、起業家Peter Thielの講演会に行ってきた。

ティール氏は、想像していたよりは普通の人だった。というより今までに「すごいなーなんでこんなに早く頭が回るんだろう」と思った人たちと比べると、ごくごく普通だったという感じ。話す速度はゆったりとしていた。声は静かで落ち着いた若々しいトーンだった。言葉に詰まったり、人間らしく少しこじつけのような回答を返したりもする。帰る時に至っては気づいたら普通に隣を歩いてて、そんなにバシバシオーラを感じなかった(昔玉木宏の講演会に行った時はヤバかった)。Stanfordのロースクール出て、最高裁判所への採用一歩手前まで上り詰めた上に、FacebookPayPalSpaceXなど数々の名立たるスタートアップを裏から支え、圧倒的なビリオネアである上に、最近UCバークレーで話したときは抗議者が出て逃げるはめになったほど過激な思想を持つ人物としては、あまりに像が平凡に思えた。

ただそんな末梢を除いても、問題意識と危機感が飛び抜けていた。

それはあの場にいた人たち全員と、彼の本を読んだ多くの人が感じたことだと思う。

「世界に関する命題のうち、多くの人が真でないとしているが、君が真だと考えているものは何か?」
(『ZERO to ONE』より引用)

じゃなきゃこんな問いは、出てこない。

彼は「競争の対義語が資本主義なのに、差別化できない場所で戦う人が多すぎる」とか、「範疇(category)で考えることでFacebookの何が特異だったのかが理解しにくくなる」など、人が何を思い込んでいることで問題が生じているのかに対して鋭敏な感受性を持っている。プロダクトさえ良ければ販路がしっかりしていなくても売れると思い込んでいる人への批判もそうだ。人。著書から見える彼がとにかく理解しようと思っている対象は、人に尽きると思う。

ティール氏は確かにすごい。実績も能力も半端ない。

でも対象が無敵もしくは無欠に見えたときこそ、検討を進めなければいけない。じゃなければティール氏が批判している、太陽光発電だとか機械学習だとかのテクノロジーへの過大評価(over-rated)と一緒で、実態の理解に至らない1

講演では、彼がいったいどこに弱みを持つ普通の人間なのか?に注意して話を聴いていた。それは彼を貶めるためではなく、あくまで彼の立ち位置と主張をより良く理解するための試みである。だから、会話のスピードや声質が威圧するようなものでなかったのは助けになった。当たり前だが自分からそんな話を起業家がするワケがない。だからこそ、対談相手の糸井氏の鋭い質問がとても参考になった。

以下では、著書を適宜参考にしながら、ティール氏の人生における最も初期の挫折、最高裁判所のポジション争いにおける敗北について少し考えてみる。

戦争特集の番組でタモリが「この質問の答えが分かったら他はどうでもいいとすら思ってるんですけど」「終戦、って言いますけど、敗戦ですよね」といった旨の発言を歴史学者に尋ねていた。

それと同じで、ティール氏のスタートは敗北である。

彼は弁護士人生を円満に終了させてから臨んだわけではない。 これ以上ないほど明確に敗北して、そして戦うフィールドを変えたわけである。

講演会の終盤に、なんだか話を聞いているとあなたには怖いものがないように思えてくるんですけれど、怖いものはありますか?と糸井氏が質問した。

僕の聞き取りが正しいか怪しいが、彼はそこまで自己認識(self-awareness)していないと断った上で、失敗(failure)は怖いと言っていた。他の質問では競争に負けることは深い心の傷として残る(traumatic)と表現していた。彼は失敗にくよくよすることなく(dwell on)、失敗から学ぶなんてことにも拘らず、たんに次のことに進む(move on)ことで、悪循環のcycleを早期に断ち切ることを強調していた。

彼はポジション競争での敗北から学んだ(=正の影響を受けた)のではない。
単にそこから逃げることで、影響をゼロに近づけたのだと言える。

結果が(試験結果が、試合結果が、提案結果が)全てだと大衆は言う。
過程に評価軸を与えると歪むから、結果を重視するのは正しい。

ただ実際には、その「結果が全て」という公理では、ティールが椅子取りに負けたのに社会的には遥かに大きな影響力を持つ存在になったことが説明できない。小さなゲームの成績の良し悪しがより大きなゲームの最適解として繋がっていない。これは囚人のジレンマとは別の原理に基づくような気がするけれど、一体どうしてだろうか?

ティール氏の話を聞く限り、鍵はnot dwell on, but move onということなのだと思う。スゴロクで目的としていた次のマスに進めなかったとき、人は何をするか。政策の効果を因果推論することが最近の研究課題だったり、6人経由すると世界に繋がれるみたいな話があったりするように、僕らの直観はネットワークについて正確に理解することがほとんどできていない。失敗の際に、自分が求めていた何かへの経路が絶たれたように感じて、そこでn回休み続けるのは、全くの見当違いな対処かもしれない。回り道があるかもしれない。それか、自分が求めていたものとは形が違うけれど、サイズは大きな何かに繋がる道に、たまたま足が向くかもしれない。

現在の科学的知見は、別のマスの先に何があるかは保証しない。
ただ同時に、今のマスにしか目標が存在しないとも断言しない。

同書では、『指輪物語』の一節を引用して、先人とは別の道を行くべきだと説いている。

角を曲がれば、待ってるだろうか、
新しい道が、秘密の門が。
今日はこの道、す通りしても
明日またこの道、来るかもしれぬ。
そして隠れた小道を通り、
月か太陽へ、ゆくかもしれぬ。

(J.R.R トールキン著、瀬田貞二/田中明子訳、評論社文庫)

ショックを受けて立ち直れない期間は、彼の偉大すぎる業績リストと比べて見るとあまりにも短い。だから目に付かない。2015年、きっと多くの人が「良かったね競争に負けて」とティール氏に言葉をかけたことだろう。と思って読み直したら、2004年段階で既にそのような話があったようだ。

ペイパルを売却した後の二〇〇四年、以前に事務官への就職活動を手助けしてくれたロースクール時代の友人に偶然出くわした。ほぼ一〇年ぶりだった。彼の挨拶は「元気かい?」でも「しばらくぶりだな」でもなかった。ニヤリと笑ってこう言ったのだ。「ピーター、事務官にならなくて良かったな」。振り返って初めて言えることだけれど、究極の競争に勝っていたら僕の人生は悪い方向に変わっていたことを、彼も僕も認めていた。もし最高裁の法務事務官になっていたら、おそらく証言を録音したり他人の事業案件の草案を書いたりして一生を過ごしていただろう。 (同書)

その言葉は、敗北感に打ちひしがれていただろう当時の彼の前では、到底かけられないものである。いや、そんなことは、かけてもらう必要すらないのだ。彼はmove onという戦略によって、勝てるゲームに乗り出しにいったのだから。彼が一時期デリバティブのトレーダーになっていることにも人は思考を走らせない(序文の著者は言及しているが)。彼は実は2度続けて失敗しているということだ。そう、だから彼は失敗から学んだのではない。学んだのでは決してない。

 

彼は何度でも逃げたのだ。
資本主義をするために。

 

起業は、君が確実にコントロールできる、何よりも大きな試みだ。起業家は人生の手綱を握るだけでなく、小さくても大切な世界の一部を支配することができる。

 

心理学が説く白黒思考は、あまりに単純化されたネットワークの捉え方である。道は2本だけあって、片方はマイナス無限大、もう片方はプラス無限大。文字にすると馬鹿らしいけれど、試験の結果が出るときにはみんな暗黙にこのことを信じている。明確な基準に基づいて評価を行うと、どうしてもそうなる。じゃなければ片方を追うことなんて、バカバカしくてやっていられない。

ティール氏の著書に書かれた内容は、熾烈な、しかし「小さな」法曹世界の敗北者の、とても資本主義的な圧勝法だった、と僕は思う。
そしてこの本は、大学受験で白黒思考を染みこまされた有名大学の生徒とその卒業生にも読まれるべきだと思う。
彼らは挫折に対して、とても脆い。ティール氏の「立ち直りの早さ」はすさまじい。なお、早すぎて、普通にゼロ・トゥ・ワンを読んだだけでは失敗したことがまるで些事のように読めるが、講演を僕なりに聞いた限りでは、キャリア初期における彼の失敗は相当彼の「勝ち方」への思想に影響を与えていると思う。

 

ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか
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  1. ビッグデータについて僕はティール氏とは違う理解をしている。僕自身も以前はバズワードの一つとして捉えていて、ビッグデータなんて実際には計算機を回す時間を不必要に増やすだけで、サンプリングのミスを誘発させる害悪だとすら思っていたが、現役のデータ分析者の意見を聞いて、実務上で意外と便利であるという理解に落ち着いた。その内容は省略。