蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

文字と「跡」、あるいはデータと呼ばれるもの

文字は「今、ここ」を離れて行なう観察のゲーム・チェンジャーだった。そして今現代に起きていることはデータによる二次革命である。映画においては続編は前作より低評価になることが常だが、果たして技術においてはどうだろうか。

 

私たちは、文字で現象をほとんど理解したと思い込んでいた。たとえば兵士は戦地で死ぬものだと思っていた。だって兵士は戦闘によって致命傷を受け、兵舎では戦闘に備えて休息しているのだから、当然だろう。不衛生な病院内での感染症死亡者が戦地での即死より多いことを示したのは、たぶんナイチンゲールが初めてだった(思うに、彼女は砲弾が飛び交う戦争の最前線自体は見ていなかったはずだ。だからデータで比較しようとしたのだろう)。

 

文字は便利だ。イメージをひとたび構築すれば、理解したように感じられる。私が訪れたことのないアフリカの国でも、そこで働いていた友人の話を聞けば、なんとなくイメージを掴める。ただそれは近似、それも誤差保証なしの近似である。そして「誤差保証なし」と枕詞が付いたときのベスト・プラクティスは、複数の方法で相互の精度を監視し合うことである。

 

データを分析しはじめて、私たちは体表面に億単位で存在する微生物のような複雑怪奇な生態系が、データという「現象の痕跡」の中にも存在することに薄々気が付き始めた。私たちは自分たちの過去を文字と脳内写真の列として記憶している。本当にそれは正しいのだろうか。ナイチンゲールが見つけたあの隠れた真実に匹敵する価値ある知識は、私たちが記録せずに過ごした過去のどこかに隠れてやしないか。

 

ビッグデータ、IoT、AI、クラウドは、次のナイチンゲールを待っている。