蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

意志決定、正解、学習

Facebookの創設者による母校でのスピーチを読み、映像を見た。日本語訳はこちら

 

平易な言葉で語られているが、ティールと一緒でかなりコンテキストなスピーチであり、また読み返したいと思う。

 

その中でひとつ印象に残る一節があった。

 

It's good to be idealistic. But be prepared to be misunderstood. Anyone working on a big vision will get called crazy, even if you end up right. Anyone working on a complex problem will get blamed for not fully understanding the challenge, even though it's impossible to know everything upfront. Anyone taking initiative will get criticized for moving too fast, because there's always someone who wants to slow you down.

In our society, we often don't do big things because we're so afraid of making mistakes that we ignore all the things wrong today if we do nothing. The reality is, anything we do will have issues in the future. But that can't keep us from starting.

 

(拙訳:高い理想を掲げることはよいことだ。でも、他の人にはその理想は理解されないと覚悟していてくれ。他人は、大きな構想を抱いて何かに取り組む人のことを「狂っている」と評価する。たとえ最後に君のほうが正しかったと判明する場合でもだ。複雑な問題に取り組めば「問題全体を理解してもいないくせに」と批判される。たとえすべてを事前に知っているなんて到底不可能であってもだ。率先して何かを行えば早急に過ぎると批判される。いつも誰か、あなたの歩みを遅めようとする人がいるからだ。

 

私たちの社会では、たいてい誰も大きなことに取り組まない。失敗を犯すのが怖すぎて、何もしない。今の制度が何か間違っていると分かっているのに、無視をしようとする。本当のことを教えてあげよう。何をしても失敗なんだ、未来に何か課題を残すという意味においては。だけど、だからといって始めないわけにはいかない。

 

 

 

僕は、なぜか知らないが、高校あたりからやたらと失敗を恐れるようになった気がする。まず先生や指導者、助言者、保護者、有識者の意見を聞き、それらから外れることを極端に怖がっている。それは、彼らが正しく、僕が間違いうるという、そういう図式で余りにも長く学びすぎたからなのかもしれない。もしくは、aloneであるから、怖いというそれだけなのかもしれない。たとえ自分の方が正しいような気がしても、怖くて有識者の勧めを選んだという経験が思い当たる(それが上手くいってしまったりするから更に難しい)。

 

そして、不確実な複数の選択肢から1つを選ぶことを、極端に嫌っている。だから「確実」でたった1つしかないように見える、「現状維持」を続けようとする。選択肢から1つを選んだ場合でも、選ばなかった選択肢の気づかなかったメリットや後から追加されたメリットを聞くたびに、心臓が跳ね上がる。頼むからこれが正解であってくれ、と願う自分をそこに発見する。

 

 

未来になってしか確定しないことは多い。自分が予約しようか迷っている2つのレストランのうちどちらが数日後まで残っているかなんて、いくら調べても分からない。どの事象も確率分布する。レストランじゃなくて転職先でもいい。転勤先でもいい。「君が選んだのは正解じゃなかった」と証拠付きで主張するのは、とんでもなく簡単なタスクだ。だってどれも、課題を残さないという点では正解じゃない。転職先Aでは人間関係が問題になり、Bではキャリアパスが問題になり…そういうことが怖くて、いつまでも調べ続ける。でも実際にはもう分かっているのだ。調査では未来は確定しないことを。ただ、可能性の大小を不確実に狭めて、実利益の代わりに期待利益を上げているだけである。期待利益なので、事後リターンも期待値として計算するのが合理的だろう。1つ2つダメな結果に繋がったぐらいでは実は問題は起きていない。人生において学習とは、各問題領域(育児、家事、職業)におけるその時間効率と、「打ち切り」の上手さを鍛えることも含まれていることに気づいたのは、いつだっただろうか。

 

期待利益で判断し、事後期待利益で自分の判断を評価するのは、とても大事な思考の癖のように僕には思える。どの選択肢も結果の課題量がゼロでないという意味で正解のない世界で、我々は数量化できないものを意志決定していく。

自動販売機と同調圧力

日本とアメリカは大きく異なる点がいくつかあるが、今日はその中でも一見ささいな、しかし象徴的な点を取り上げてみたい。

 

それは自動販売機である。

 

日本における自動販売機は、当たり前のことだが全てきちんと合理的に動く。

 

アメリカの自動販売機はそうではない。

全体の自動販売機のうち、ごく1割ほどが合理的に動く。

 

たとえば、1ドルの清涼飲料缶を買うことを考えてみる。

 

小銭がないからと20ドル札を入れて1ドルの商品を買うと、5ドル紙幣3枚と1ドル硬貨4つを返すそこそこ合理的な自動販売機もあれば、全て1ドル硬貨で返す自動販売機もある(紙幣がないわけではなく、紙幣で返す機能がない)。19個の硬貨がカチャン、カチャン、カチャン、カチャン…と釣り銭入れに溜まっていく様子を最初に見たときは衝撃的だった。

 

19ドルぶんの硬貨はそれだけで財布が超パンパンになるが、それでも20ドル札を使えるだけ有難くて、そもそも大抵の自販機は1ドル紙幣か5ドル紙幣しか受け付けない。20ドル紙幣しかない場合は、友達に両替してもらうか、近くの20ドル紙幣を受け付ける自販機で少額を消費して崩すしかない。

 

そして、都合よく1ドル硬貨を持っていて、きちんと投入したからと言って気を抜いてはいけない。僕のこれまでの経験上、自販機は4%ほどの確率で壊れている

 

壊れ方も一様ではなくて、商品を取り出すアームが正常に作動しないもの(VENDING ERRORと表示され返金される)、入れたコインが認識されずそのまま釣り銭として返却されてしまうもの、釣り銭として返却されないのにカウントされないもの(修理業者に連絡してrefundを請求するしかない)、

 

そして極めつけは、商品を支えるアームが動き出して、商品が取り出し口に向かって落ちていく、その局面に達してもまだ安心してはいけない。

 

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私はこの短い滞在期間に、これをそれぞれ別の自販機で2回目撃したのだ。

(商品が、アクリルとプラスチックフレームの隙間に挟まってそれ以上落ちてこない)

 

 

---

 

さて、この自動販売機の話は、これだけで判断すると、まるでアメリカの製造業を批判しているように聞こえるかもしれないが、私の本意はそこではない。自販機の統合テストすらきちんとできんのかアホかと言うのは簡単だが、これはむしろ文化的な現象と捉えたほうが大枠が見えてくる、と思う。

 

なぜなら、自動販売機に限らず、こっちはなんでも壊れているのだ。ジムのシャワーは3分の1は水が出ない。トイレを流すスイッチは不定期に動作不良を起こす(なので、こちらに来てから入ったあとに流れるか確認する癖が付いた)。路上のトラックでホットコーヒーとパンを頼むと、パンだけ提供されることもしょっちゅうだ。電車は急に「ごめん今日は休むわ」とかで動かない。

 

これは技術的な統合テストの話ではない。もっと深いところに根ざす現象だ。

 

話は変わって、友人2人(留学で来た中国人と、ずっとこっちに住んでいる中国系アメリカ人)と昼食を囲んでいる時に、中国人が「自分はこんど子を授かるが、こちらの学生たちはほんとうにみんなユニークに見える。どうやって子どもをユニークに育てているのだ?」とアメリカ人に質問していた。アジア人の両親に厳しく育てられた彼女は、

 

「いや、ユニークに育てているとかなくて、単にアジアと違って同じにしようとしないだけだよ」

 

と答えていた。その答えに彼は大変納得したようであり、僕の中でも個性豊かな自動販売と繋がるものがあった。

 

 

自動販売機がそれだけ多彩なカスタマー・エクスペリエンスを提供している状況にあっても、どうして日本のように全て合理的に動く段階には移行しないのか。

 

それは、こちらの人はみな「同じでない」ことに慣れているから、「同じようには動かない」ことが普通だと思っており、そこにわざわざ改善が必要だと思わないからである。

 

もちろん彼ら彼女らも、自分の金が吸い込まれてしかもモノが買えないとなればクレームを付ける。ただし、19ドルの硬貨を返す自販機に文句をつけるかというと、たぶん付けない人のほうが多い。僕が予想するに「えっ、だって全額返ってきたじゃん、何が問題なの」とキョトンとされるのが山だろう。「えーっ、そんな細かいこと気にするの、へー面白いね」ぐらいのコメントが返ってくるかもしれない。

 

彼らは学生のプログラムが謎の中間メッセージを出力しても気にせず採点するし、細かく聴くと3から10ぐらいの特殊ケースを扱っていても、「全部問題なく終わったよ」と一言だけ言って終わったりする。

 

彼らにとっては、何もかもが異質であることが当たり前で、それが自動販売機であろうが、他人であろうが、プログラムであろうが、キャリアであろうが、食事であろうが、異質であることが同一なのだ。

 

 

この成功例が個性豊かかつ優秀なトップスクールの学部生たちであり、失敗例(日本人からすると、か?)が自動販売機である。

 

ちなみに副作用として…僕は未だに英語がまともに話せない&聞き取れない(何度も聞き返す)ので、友人と気軽に話している際ですら大変心苦しいと思っていたのだが、彼ら彼女らの様子を見ているにたぶん英語が得意とか不得意とか、気にしていない(どちらも真剣に聞いている)。彼ら、彼女らにとっては自動販売機が返す19ドル分の硬貨みたいな程度の不快感に過ぎないのだろう。ここらへんは人間的な深さであるなあと友人たちを見て思う。

 

 

知識の獲得について

 

私は学生である。その字面が示すとおり知識の獲得を第一義とする存在である。この記事では、知識の獲得がどう促進されるのか考えてみたい。

反復する

大量の知識を取り込もうとすると、どれも1度目を通しただけで次に進んでしまいがちだが、反復は理解の基本である。
何度も繰り返すうちに知識は特定の形で固まり、以後外に出すときはその形を取るようになる。リズムを得ることは大変に重要なことである。たとえば動的計画法の解法に気付けるようになったりする。

 

徒弟に入る

中世では徒弟制は技術を外部に漏らさないための制度だっただろう。今それは論文コミュニティで起きている。教授と親しくなると、およそ論文には書いていない内容についてアネクドートが手に入る。

 

時間制限をかける

生産性は〆切日数の逆数だと言われるように、時間が制限されると人間のパフォーマンスは如実に上がる。この日に友人と宿題について議論するなどイベントを設定すると、その日までに完了させるインセンティブが発生する。

 

歩きながら自問してみる

「さっき動的計画法について習ったけど、動的計画法ってなんだろう」と考えてみることで、自分が理解していないところが浮き彫りになる。歩きながらだとあまり疲れずにできる(気がする)。

 

わざと間違える

「間違えるとAが起きる」は立派な知識である。いまの自分がそのような愚鈍な失敗を犯さずとも、2徹してまともな判断力がない自分がしないとは限らない。たとえばエラーメッセージが分かりにくい C++ のテンプレート やネットワークプログラミングなどでは、一度成功したあとにわざと間違った形にした際に、何が起きるのかを予め把握しておくことが将来への投資になる。

 

分からないふりをする

あなたがもう知っている事柄について、知人や教授が説明を始めたとする。遮るのも手だが、ここは一つ注意深く耳を傾けてみよう。短い会話で説明しようとする場合、要点だけを説明せざるを得ない。すると、自分が気づいていなかった省略法や一般化に気づける可能性がある。たとえばギブスサンプラーを説明してからM-H法を説明するより、M-H法を説明してから「ギブスサンプラーはその特殊版」と言うだけで済む可能性がある。

より初等の教材にあたる

大学院の講義が難解すぎて、困ってないだろうか。そういうときは同分野の学部生向け、あるいは一般人向けの解説書にあたると理解が進む可能性がある。象を遠距離から見たことがない状態で2センチだけ離れて調べるのは危険すぎる。自分がどの程度の粒度ならば理解できるのか。

理解している人に尋ねる

身近に居れば、これ以上の助けはない。

コミュニティに入る

大学院は、授業ごとに3人ほどの勉強グループを作れば、生産性の下限がかなり絞られる。他のメンバーに遅れないように集中するメリットもあるし、特に海外ではそれぞれバックグラウンドが違うので、3人ともが分かっていない内容は非常に少なくなる。

 

非同質なチームを作る

 違うバックグラウンドやスキルセット、関心の持ち主と協働作業をすると、たいてい一人でやるよりもよい結果が手に入る。

 

母語と英語のQ&Aサイトを参照する

例えばプログラミングでは、英語のStackOverflowを見ると大抵それで片がつく。英語コミュニティの層の厚さ、また彼らは求職のために技術的に正しい回答を投稿しているという強い動機も見逃してはならない。

ランダムウォークする

いつもしない教科書の読み方をしてみる。たとえばアブストとイントロを読まずに結果の表だけ見てみる。授業前に5分だけ予習してみる。普段勉強の話はしない友人にさっきの授業どうだった?と聞いてみる。StackOverflowに投稿してみる。Wikipediaで自分が読めない言語で説明を読んでみる。確率的刺激は、意外な発見をもたらす。

無視する

経験が足りないとそもそも理解が不可能な現象というのが多く存在する。ならば単に無視する。

とりあえず一通り目を通す
最後のほうに分かりやすいまとめがあることも。

別の言語で試してみる
数学にはこれがとても聞く。

いろいろなメディアで書く
鉛筆で書く、タイプする、ブラックボードに講義をするみたいに書き付けてみる

グラフとしてプロットしてみる

例を編み出す

複雑なアルゴリズムになってくると、例を一つ考えつくだけで手間がかかり、なおかつ学習効果も高い。そのアルゴリズムの目的がより明確になるからだ。たとえばAC3アルゴリズムの出力がunsolvableなCSPになるような入力を考えてみよう。AC3が極めて限定的なことを目的にしていると納得できるはずだ。

声に出す

不思議なもので、声というメディアに乗せるとそれだけで気付けることが増えたりする。あるいは、誰かが声に出して説明しているのを聞くだけでもいい。

象を批判する:あるいは「現象の集合」と「元どうしの違い」について

とある有名なプログラミング言語の開発者が言っていた。自分の開発した言語をユーザーが語るとき、「それはどこかで、誰かにとって、いつかは真実だったのだろう」という感想を抱くと。彼はそれを群盲象を評すの挿絵を用いて説明していたが、この説明は印象に残りやすい一方、理解しないまま何となく覚えてしまいがちだと思う。この話には色々な示唆や応用があるだろうが、一つには相対主義に対してどのような戦略が有効であるかを示していると思う。ここでは、少し(細部を検討している時間がないので、伝わる程度までのあくまで少し)形式的に考えてみる。

 

象(ゾウ)と呼ばれる集合 Z を考える。ウィキペディアとの整合性を取るために、Zの元は Z = {足、尾、鼻、耳、腹、牙}とする。すなわちZの濃度 |Z| は |Z| = 6 である。

 

n(n >= 1)人の就活面接官と数分ずつ会話をするとする。簡単のため n = |Z| = 6 で考える。あなたは自身の採用確率を最大にするため、以下の2つの行動を取る。(1)面接官と同様の経験があれば、それを話題にする。(2)面接官と同様の経験がなければ、彼の話を聞く。

 

面接官 (Interviewer) を表す集合 I = {f、r、n、e、b、t}を考える。面接官 f ∈ I は象の足(foot)を、面接官 r は象の尾(rope、牙tuskとの混同を避けるためtailは使わない)についてそれぞれ詳しく、その話題について会話ができる人材を求めている。

 

あなた( Y )は目の前に現れた面接官がどの話題に詳しいかは分からない。ただし、象の特徴的な部位に関する知識から、目の前の面接官が部位 i について知っている確率 Prob( i ) = {足: 0.10, 尾: 0.05, 鼻: 0.3, 耳: 0.25, 腹: 0.1, 牙: 0.2} だと推測している。これは確かに Σ_{i ∈ Z} Prob( i ) = 1を満たす。

 

その志望企業が象のどの部位に関する業務でも一流レベルであることを知っているため(生態学研究所だろうか)、全ての面接官はそれぞれ違う話題を持ち上げるだろうと想定する。すなわち i_k を k番目の面接官としたとき、たとえば面接官 2 人と面接したあとの事後確率 prob( i_3 | i_2 = f, i_1 = r ) = {鼻: 0.3 / (0.3+0.25+0.1+0.2), 耳:0.25 / (0.3+0.25+0.1+0.2), 腹: 0.1 / (0.3+0.25+0.1+0.2), 牙: 0.2 / (0.3+0.25+0.1+0.2) } などなど

などなど

 

ダルくなってきたので切り上げるが、だいたい何となく言いたいことは伝わったと思われる。象の比喩が言いたいのはequally likely(Prob( 足 ) =Prob( 尾 ) = Prob( 鼻 ) = Prob( 耳 ) = Prob( 腹 ) = Prob( 牙 ) = 1/6)で平等な世界でもなく、(通説だし|Z| > 100万などになったらそうなるが)自分は一面だけしか理解していないことの説明でもなく、ある元 z ∈ Z を誤謬とする攻撃性の話でもなく、「現象の集合」としてしか呼ばれない象 Z について、複数人がZの異なる(性質も異なる)元 z1 とz2 を使用した際に、頻出度や他の制約条件から適切なコミュニケーションが導出される(相対主義に対してどのような戦略が有効であるかを示している)という話だというのがこの記事の主張だ。

 

以上を、形式的に曖昧性の高い自然言語を用いると、極端には

 

あなたは象について詳しい6人の面接官と、象について話をした。

 

となる。僕は「あなたの言っている象と私の言っている象は違う」とか「その「国際政治」ってどういうこと?」と言った表現がなぜかあまり好きではない(必要悪だとは思うのだが…)。そのような表現では、潜在する条件付き確率や集合の濃度を、つまりは違いを過小評価しているように聞こえるからだと思う。下手するとその「象」と呼ばれる集合自体すら定義が不適切なことすらあるのに(例えば上で定義した象には目も口も含まれていない、あるいは観光地に存在する象には動きが不可欠だろう)、まだ僕たちは自然言語から離れられないのかとどこか嫌気がさしているからかもしれない。 

 

まあ、象を批判するときは、あるいは誰かが象を批判するのを聞いたときは、ちょっと気をつけようと、そう思ったということである。

 

データにならない日記

データを日常的に解析する人たちにとって、散文で書いた個人的な日記はどのような意味を持つのだろうか?

 

データという言葉を辞書で引くと、資料、情報、証拠、事実、そのあたりの熟語が目に入るが、実のところこの使い尽くされた言葉は決定的な訳語を持っていない。僕はと訳すのが好きだ。アルゴリズムと訳すのが好きな人間なので、どこか日常語以外のところに明確なイメージを持ちたいのかもしれない。

 

最も、これだけ日常化したカタカナ語をわざわざ訳して使うなんて非効率な、と思う人もいるかもしれない。どちらかというと僕は明治・大正・昭和期の漢字まみれの日本語が好きなので、そこらへんの言語空間であれこれ考えたいがために、無理に変換している節がある。

 

さて、日記というのは生きてきた日々の痕跡を記録したものだ。何を食べたか、天気はどうだったかなどの定常的な記録を記す人もいれば、今日は医者にかかったがどうも◯◯らしい、とか、叔父の家を尋ねたときに父が青年だったころの逸話を聞いた、などの、一回性が高いことを書き留める人もいる。どちらもデータである。

 

僕は日常的に跡を解析しているが、あまり自分の日記(そもそも滅多に付けないが)やブログの記事に対して、いわゆる統計的な自然言語処理をかけようとは思わない。自然言語処理が得意ではないこともあるが、何よりも、僕が日記やブログの記事に求めるのはそういう類の演算で得られる情報ではないからだ。もっと言えば、僕は跡サイエンティストたちが使う「ファインディング」やマーケターが使う「インサイト」を見つけるためではなく、ただ単純に「思い出す」ためだけに文章を書いている。

 

思い出す」。この基本的で単純な日常動作を、僕はこの忙しい現代でよく忘れてしまう。もう昨年の4月に何を食べてどういう生活を送っていたのか思い出せない。思い出すことを思い出さないといけないレベルである。◯◯くん、ケーキはもうさっき食べたでしょう。◯◯くん、ケーキはもう食べたということをさっき思い出したでしょう。

 

日記や記事は、単に折に触れて読み返すものである。別に解析する類のものではない。それで完結しているし、それ以上のものとして完結させるには独創的な研究が必要になる。僕は自分が「ですます」より「だ」を多く使うとか「×■」という形容詞を頻用するとか知ったところで嬉しくはならないし、リコメンデーションは自分で好きな時に類語辞典で引いている。効率を不用意に下げるようなことは好きじゃない。好きに書いて好きに読み返す、この満足感を超えるのはおよそ難しい。

 

日記を思い出すために使うには、2つの要素が必須になる。

1.書かれている内容が重要であること

2.読み返すこと

 

特に自分の場合、1.では書評新生活への雑感何らかの大きな行事や作業の感想記事、あと珍しく思い当たった話題が当てはまる。2.は、たまに読んでくれた方から記事に言及されることがあって、そのときに何を書いたか自分でも忘れているので読み返す、という機会が多い。

 

自分がこうしながら得ている効用をデータ解析で代用するのは難しい。人が文章を書くことは、データ解析の技術的なスコープより遥かに幅が広い。(そもそも、文章はランダムな順に書かれる。丸々消されたパラグラフも多く存在する。完成された文章だけを入力としても大したことは分からない)

 

途中だけど終わり 

ONE to ZERO:敗北者ピーター・ティール

(以下の文章は、2015年2月20日に『蛍光ペンの交差点』本館に掲載したものです。)

 

偶然の縁があって、起業家Peter Thielの講演会に行ってきた。

ティール氏は、想像していたよりは普通の人だった。というより今までに「すごいなーなんでこんなに早く頭が回るんだろう」と思った人たちと比べると、ごくごく普通だったという感じ。話す速度はゆったりとしていた。声は静かで落ち着いた若々しいトーンだった。言葉に詰まったり、人間らしく少しこじつけのような回答を返したりもする。帰る時に至っては気づいたら普通に隣を歩いてて、そんなにバシバシオーラを感じなかった(昔玉木宏の講演会に行った時はヤバかった)。Stanfordのロースクール出て、最高裁判所への採用一歩手前まで上り詰めた上に、FacebookPayPalSpaceXなど数々の名立たるスタートアップを裏から支え、圧倒的なビリオネアである上に、最近UCバークレーで話したときは抗議者が出て逃げるはめになったほど過激な思想を持つ人物としては、あまりに像が平凡に思えた。

ただそんな末梢を除いても、問題意識と危機感が飛び抜けていた。

それはあの場にいた人たち全員と、彼の本を読んだ多くの人が感じたことだと思う。

「世界に関する命題のうち、多くの人が真でないとしているが、君が真だと考えているものは何か?」
(『ZERO to ONE』より引用)

じゃなきゃこんな問いは、出てこない。

彼は「競争の対義語が資本主義なのに、差別化できない場所で戦う人が多すぎる」とか、「範疇(category)で考えることでFacebookの何が特異だったのかが理解しにくくなる」など、人が何を思い込んでいることで問題が生じているのかに対して鋭敏な感受性を持っている。プロダクトさえ良ければ販路がしっかりしていなくても売れると思い込んでいる人への批判もそうだ。人。著書から見える彼がとにかく理解しようと思っている対象は、人に尽きると思う。

ティール氏は確かにすごい。実績も能力も半端ない。

でも対象が無敵もしくは無欠に見えたときこそ、検討を進めなければいけない。じゃなければティール氏が批判している、太陽光発電だとか機械学習だとかのテクノロジーへの過大評価(over-rated)と一緒で、実態の理解に至らない1

講演では、彼がいったいどこに弱みを持つ普通の人間なのか?に注意して話を聴いていた。それは彼を貶めるためではなく、あくまで彼の立ち位置と主張をより良く理解するための試みである。だから、会話のスピードや声質が威圧するようなものでなかったのは助けになった。当たり前だが自分からそんな話を起業家がするワケがない。だからこそ、対談相手の糸井氏の鋭い質問がとても参考になった。

以下では、著書を適宜参考にしながら、ティール氏の人生における最も初期の挫折、最高裁判所のポジション争いにおける敗北について少し考えてみる。

戦争特集の番組でタモリが「この質問の答えが分かったら他はどうでもいいとすら思ってるんですけど」「終戦、って言いますけど、敗戦ですよね」といった旨の発言を歴史学者に尋ねていた。

それと同じで、ティール氏のスタートは敗北である。

彼は弁護士人生を円満に終了させてから臨んだわけではない。 これ以上ないほど明確に敗北して、そして戦うフィールドを変えたわけである。

講演会の終盤に、なんだか話を聞いているとあなたには怖いものがないように思えてくるんですけれど、怖いものはありますか?と糸井氏が質問した。

僕の聞き取りが正しいか怪しいが、彼はそこまで自己認識(self-awareness)していないと断った上で、失敗(failure)は怖いと言っていた。他の質問では競争に負けることは深い心の傷として残る(traumatic)と表現していた。彼は失敗にくよくよすることなく(dwell on)、失敗から学ぶなんてことにも拘らず、たんに次のことに進む(move on)ことで、悪循環のcycleを早期に断ち切ることを強調していた。

彼はポジション競争での敗北から学んだ(=正の影響を受けた)のではない。
単にそこから逃げることで、影響をゼロに近づけたのだと言える。

結果が(試験結果が、試合結果が、提案結果が)全てだと大衆は言う。
過程に評価軸を与えると歪むから、結果を重視するのは正しい。

ただ実際には、その「結果が全て」という公理では、ティールが椅子取りに負けたのに社会的には遥かに大きな影響力を持つ存在になったことが説明できない。小さなゲームの成績の良し悪しがより大きなゲームの最適解として繋がっていない。これは囚人のジレンマとは別の原理に基づくような気がするけれど、一体どうしてだろうか?

ティール氏の話を聞く限り、鍵はnot dwell on, but move onということなのだと思う。スゴロクで目的としていた次のマスに進めなかったとき、人は何をするか。政策の効果を因果推論することが最近の研究課題だったり、6人経由すると世界に繋がれるみたいな話があったりするように、僕らの直観はネットワークについて正確に理解することがほとんどできていない。失敗の際に、自分が求めていた何かへの経路が絶たれたように感じて、そこでn回休み続けるのは、全くの見当違いな対処かもしれない。回り道があるかもしれない。それか、自分が求めていたものとは形が違うけれど、サイズは大きな何かに繋がる道に、たまたま足が向くかもしれない。

現在の科学的知見は、別のマスの先に何があるかは保証しない。
ただ同時に、今のマスにしか目標が存在しないとも断言しない。

同書では、『指輪物語』の一節を引用して、先人とは別の道を行くべきだと説いている。

角を曲がれば、待ってるだろうか、
新しい道が、秘密の門が。
今日はこの道、す通りしても
明日またこの道、来るかもしれぬ。
そして隠れた小道を通り、
月か太陽へ、ゆくかもしれぬ。

(J.R.R トールキン著、瀬田貞二/田中明子訳、評論社文庫)

ショックを受けて立ち直れない期間は、彼の偉大すぎる業績リストと比べて見るとあまりにも短い。だから目に付かない。2015年、きっと多くの人が「良かったね競争に負けて」とティール氏に言葉をかけたことだろう。と思って読み直したら、2004年段階で既にそのような話があったようだ。

ペイパルを売却した後の二〇〇四年、以前に事務官への就職活動を手助けしてくれたロースクール時代の友人に偶然出くわした。ほぼ一〇年ぶりだった。彼の挨拶は「元気かい?」でも「しばらくぶりだな」でもなかった。ニヤリと笑ってこう言ったのだ。「ピーター、事務官にならなくて良かったな」。振り返って初めて言えることだけれど、究極の競争に勝っていたら僕の人生は悪い方向に変わっていたことを、彼も僕も認めていた。もし最高裁の法務事務官になっていたら、おそらく証言を録音したり他人の事業案件の草案を書いたりして一生を過ごしていただろう。 (同書)

その言葉は、敗北感に打ちひしがれていただろう当時の彼の前では、到底かけられないものである。いや、そんなことは、かけてもらう必要すらないのだ。彼はmove onという戦略によって、勝てるゲームに乗り出しにいったのだから。彼が一時期デリバティブのトレーダーになっていることにも人は思考を走らせない(序文の著者は言及しているが)。彼は実は2度続けて失敗しているということだ。そう、だから彼は失敗から学んだのではない。学んだのでは決してない。

 

彼は何度でも逃げたのだ。
資本主義をするために。

 

起業は、君が確実にコントロールできる、何よりも大きな試みだ。起業家は人生の手綱を握るだけでなく、小さくても大切な世界の一部を支配することができる。

 

心理学が説く白黒思考は、あまりに単純化されたネットワークの捉え方である。道は2本だけあって、片方はマイナス無限大、もう片方はプラス無限大。文字にすると馬鹿らしいけれど、試験の結果が出るときにはみんな暗黙にこのことを信じている。明確な基準に基づいて評価を行うと、どうしてもそうなる。じゃなければ片方を追うことなんて、バカバカしくてやっていられない。

ティール氏の著書に書かれた内容は、熾烈な、しかし「小さな」法曹世界の敗北者の、とても資本主義的な圧勝法だった、と僕は思う。
そしてこの本は、大学受験で白黒思考を染みこまされた有名大学の生徒とその卒業生にも読まれるべきだと思う。
彼らは挫折に対して、とても脆い。ティール氏の「立ち直りの早さ」はすさまじい。なお、早すぎて、普通にゼロ・トゥ・ワンを読んだだけでは失敗したことがまるで些事のように読めるが、講演を僕なりに聞いた限りでは、キャリア初期における彼の失敗は相当彼の「勝ち方」への思想に影響を与えていると思う。

 

ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか
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  1. ビッグデータについて僕はティール氏とは違う理解をしている。僕自身も以前はバズワードの一つとして捉えていて、ビッグデータなんて実際には計算機を回す時間を不必要に増やすだけで、サンプリングのミスを誘発させる害悪だとすら思っていたが、現役のデータ分析者の意見を聞いて、実務上で意外と便利であるという理解に落ち着いた。その内容は省略。

学習過程においては、解決策に飛びつかない

R言語の標準であるsubset()やaggregate()によるデータの前処理は、多少込み入ってくると非常に読みにくくなる。その解決策としてパイプ演算子 %>% を用いた magrittr が存在しているが、僕は学習者にいきなりパイプ演算子 %>% を紹介するのは最善策ではないという立場である。

 

学習において躓く原因となる要素はいくつかある。典型的なのは解決策がうまく使えない(部分積分に気づけない、%>%で言えば入力でベクターを渡しているのかスカラーをを渡しているのかを誤るなど)ことだが、見逃しがちな原因の一つとしてその解決策が解決しようとしている問題を深刻には実感できていないということがある。

 

その結果が「なぜアルゴリズムXを学ぶのか」「なぜこれを扱うのか」の集積である。なんだか良さそうだが、なんで使ったら良いのかはあまり分からない。ゆえに解決策を学んでいるときも、どこかピントがボケていて、何が欠かせない性質なのかが読めない。

 

この原因の発生過程には、教育それ自体は短時間で解決策を多く紹介しようとする(それこそが効率的な教育だから)のに、実際には多少紹介する数を緩めたほうがよいというパラドックスが絡んでいる。実際にはこの最適化問題は制約付きで、人間は実感したことのない問題の解決策はうまく覚えられないのだ。その場合、実は解決策の数を減らしてでも、問題の深刻さをしみじみと実感する時間を取った方がよい。多くは試行錯誤の時間であり、一見すると無駄のようにも見え、実際度を過ぎると無駄である。ここの調節は非常に難しい。確率的にしか成功しないと覚悟して臨んだほうがいい。

 

最初のうちはsubsetやaggregateで良いのだが、データの前処理過程が複線化して複数の処理済みデータを作成する段になってくると、それらの関数を正しく使えているのに読みにくいという事態が生じる。この事態こそがパイプ演算子が解決しようとしている問題であり、つまるところ用法と複線化は別々の課題なのだ。前者だけを解決するデフォルト関数から、後者も含めて解決する dplyr などのパッケージの関数へ、というのが恐らく論理的な流れとしても正しく、ここは飾りではなく本質である。

 

教える側としては、R言語の前処理と可視化を題材とするケースが多く、教えられる側としては、特別なデータ構造やアルゴリズムが多い。学習をその両面から検討するにあたって、この「いつ解決させるか?」というテーマは注目に値すると思う。