蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

ぼたもちはどう生きるか

価値観において

  • 評価基準を自身の外部(賞や合格などの結果を含む)に依存することなく、挫折の際にも自身が積み上げてきた過程を誇りと幸せに思える揺るぎなさ・打たれ強さを身に着けたい。これは3年前には既に思っていたことのようだが、その記事にも記録されているように常に変動している不安定な信号であるようだ。しかしそれが大事だと、ここ数日間でより明確になった。自信や不安といった感覚の発生源が、このあたりの回路に潜んでいる。
  • 怒りや妬み、孤独や恐怖、焦燥感や疎外感に人生を浪費しないという目的において、幸せになりたい。世の中には幸せでない人たちがたくさんいるのは知っている。でも、恵まれた環境に生きていた人が、幸せでいられない社会が理想であるとは思えない。

 

社交において

  • 日常の他愛もない話題でもどこか楽しい、面白おかしいと感じられるような話し手でいたい。日常のミスを大体拾ってくれるエンターテイナーでありたい。
  • 音楽のような会話ができる人になりたい。相手が行きたい先へ行くのを自然に助けながら、ときに大胆に予想を裏切ることでより深く心を動かす存在になりたい。
  • 他人の前進・達成・卓越を斜に構えずに受け止め、社会を前進させるその方向性それ自体に賛辞を与える存在になりたい。これはここ数年の上司がそのような人だったことに大きく影響を受けている。たとえ小さな前進でも、それに応じた小さな褒め方をしていた。

 

ライフスタイル(生活様式)において

  • 自律した社会生活を営むために、面倒だろうが工夫して雑務も安定してこなせるようになりたい。ゴミ屋敷のような部屋に住む人達を何人も見てきた。今後も引きこもりや社会と関わりを嫌う人は社会問題であり続ける。健康的な生活習慣を送ることで、命の大切さを忘れないように過ごしたい。

 

倫理面において

  • ギブアンドテイクの利害打算を超えた交流に楽しみと意義を見出し、与える余裕のある存在になりたい。風流という言葉を体現したい。

 

実利面において

  • 金融資産を含む狭義の投資に加え、訓練や活動支援など広義の投資について場数を踏む中で、管理可能な範囲のリスクを取りながら着実に金銭含むリターンを出していくスキルを身に着けたい。これがなければ、資本主義下で生き残れない。

知性の行き着く先は、ファンファーレでなければならない

人生の中で、ただ一つ殆どどのような時にでも役に立つ最強の武器があるとしたら、それはなんだろうか。私は、それは「他者を味方につける方法」だと思う。

というのも、人間の一つの特色は、個々人が自分で意思決定する自由で自律的な存在でありながら、それと同時に、お互いが協力し合うことによって、より大きなことを成し遂げるという点にあると思うからである。

 

私はまだあなたのことを知らない。

 

会ったこともないし、聞いたこともないかもしれない。会ったことはあっても、形式的な出会いで深くを知らないかもしれない。それでも私には分かる。あなたと私はこれからそれぞれの場所で経験を積み、どこかで出会い、お互いの世界を知り、お互いの癖に眉をひそめ、そしていつかともに何か大きなことを成し遂げる。些細なことで対立し、奇妙な文化を作り上げ、忘れられない出来事を共有する。

私達はそれを誇る。私達はそこに、なにかひとりではできなかった、人間らしい豊かな「あみ目」を見出す。それが私達の物語である。まだ書かれておらず、目に見えないかも知れないが、しかし来る。それは予想外に予想通り展開する未来であり、終わってみれば采配通りなのである。ぼたもちさん、最初から私にはわかっていましたよ。

 

神が灰になった世界にあっても、鮮やかな希望はまだ遺されていた。我々は自律して行動を選択する主体であり、フォルトに耐えることのできる魂の魚群である。スケーラブルなシステムはそうでなくてはいけない。ハリボテを倒しに向かう人もいれば、記号を解読する人もいるだろう。網を作る人も居れば、空気を読む人も居るかもしれない。我々は分散投資をしている。分散投資をして、たまにカレーを一緒に食べる。生きてゆこうと思えるような社会を想像し、設計し、実装し、そこに生きることは幸せである。それは革新を志向しない静的な社会よりも高貴であり、投資する価値がある。

 

世界に遺された意志のきらめきを見たときの、この希望を人生の参照点の一つとしよう。埋められた木の実がまだ芽を出していなくても、その芽吹きを信じていたリスの真正さを覚えておこう。土へ還ったリスは役割を果たし、物語はまだ続く。この先はまだ何も書かれていない。ただ森は大きくなったと記述があるのみである。

 

知性の行き着く先は、ファンファーレでなければならない。待ち受けている難題の数は問題ではない。無力さも問題ではない。我々が葦であろうが、卵であろうが、塵であろうが、大した問題ではない。人類は道具を作り、その革新力を強化してきた。馬車を作り、水車を考案し、観覧車を建て、そこに純文学の思想的建築まで建てた。我々は見えない梃子でして世界を動かすことに惹かれ、こうして現代的な道を選ぶに至った。自由人であろうとするならば、漆黒に呑まれることなく、その夜空に星座を描かねばならない。

 

学問は中立的かつ客観的に世界の様相を描こうとするかもしれない。だがしかしそれを行う私たち人間は、したたかに楽観的で偏っていなければならない。なぜなら、世界から取り出した任意の一部分を自分の意志で増幅できることこそ、人々が持つ中で最も尊い力だからだ。

 

最後に私が尊敬する技術者の言葉を贈ろう。

 

「現実に存在する実装が不完全なことと、設計された概念が本質的に不完全なことを混同してはならない。我々の多くが朝起きて仕事に向かうのは、そこにまだ改善の余地があるからだ。 」

 

使わない言葉を決める大切さ

実現させたい未来があるときに使うと害になる論法や表現法がある。そのうち最も耳にすることが多いのは、「Aがいいことは当たり前なのに、なぜそんな簡単なことも分からないんだ?」である。組体操がなぜ廃止されないのか、なぜ増税か、なぜ霞が関で働くのか、なぜワクチンを打たないのか、などが最近見る話題だと思われる。

 

この疑問文は、相手が依拠している思考の筋道(あるいは優先順位)に対する無知を正当化している。実際には、他の選択肢の利点を見逃している可能性や、選択肢Aの欠点を過小評価している可能性もある。

 

対策は多数考えられる。

  1. 「この人達を説得するには何を伝えればよいだろう?」:選択肢Aが正しいことは前提とした上で、相手にその正しさをどう気づかせるかをデザインする。
  2. 彼らが反対していることは放っておいた上で、選択肢Aを実行する。選択肢Aが無断で実行されたことに憤慨しうるケースでは悪手だが、一回試せば気に入るタイプのものでは有効である。
  3. 法律や権威、何らかのインセンティブなどで合意を取り付ける。ケースによっては単にゴネるだけで効くこともある。
  4. 彼らの手元では彼らが望んだ選択肢を実行させた上で、その影響範囲から自分を取り除く。こうすると被害を受けるのは彼らのみになるため、認知的不協和を起こして害を最小限に留めるか、あるいは選択肢Aに収斂する。
  5. 「彼らの選択肢のほうが実は正しいのではないだろうか?」:選択肢Aが正しいことを再点検するため、相手の言い分を聞く。

 

どの対策法を実行するにせよ、大事なことは、相手の意思決定の筋道が分からないとき、巷でよく見るからと言って前述の感情爆発文に落ち着くことは得策ではない、ということだ。異なる思考過程を辿る人々で構成されているのが社会であり、そこを理解する方針を放棄するのは厳しい。

 

よく見る理由は、それが解決に至らないからずっと残るからであり、実際の解決策はとても多岐で、出会う頻度が分散されているからだ。多数の人が使う言葉や表現の中で、何を使わないことに決めるかは、現実の展開にとても大きな影響を及ぼす。

運命に告げたさよなら

生きていれば人はいろいろなものにさよならを言うだろう。

 

子供のころに飼っていたペット、転校していった仲のいい友人、疎遠になった文通相手、ボロボロになったお気に入りの筆箱、長年通った習い事の先生、届かなかった部活動の勝利、お世話になった地域のおじいちゃん、片思いに終わった相手、学生時代を過ごした寮、そりのあわなかった知人、自分を苦しめた親知らず、苦境から救ってくれた制度、毎日乗って通学した自転車、改修されて消える駅のホーム。

 

それぞれに鈍い痛みをもたらすわけではあるが、
運命にさよならを言うのは別格だった。

 

数十年ずっと自分を規定していたものを捨てる。何百人の予想を裏切るのか。そもそも自分に選ぶ権利などあるのか。自分を自分の手で殺したような後味の悪い体験。

 

若いころに耳にしたことばというのは、パレットに最初に乗せてしまった絵の具のようにいつまでも心に残って影響力を持ち続け、僕のそれは予備校講師が言っていた。「自分で決めたのだったら、その先が地獄だろうとなんだろうと、納得できるよ」。それから10年ほどが経って、僕はまだその言葉を忘れずにいる。

 

重大な決断をするとき、僕はふつう親密な友人や信頼できる恩師に相談する。だけれど今回は、自分で決めたいと思ったから誰にも相談しなかった。誰かが言っていた。自分を長い間偽っていると、いつのまにか自分の本当の声も分からなくなってしまうと。僕は別に気づいていない論点を指摘してほしいわけでもない。冷静な頭に整理してほしいわけでもない。背中を押してほしいわけでもない。僕はただ知りたかった。もし恐れがなかったら、僕はいま何をするだろう?そうやって何晩も考えた。

 

天秤にかけられたのは、要するに過去と未来である。過去には、夥しい数の糸や絆が張り巡らされている。麻糸や、鋼線で繋がれたものもある。不自由で、個人と呼べないような存在だ。一方で未来は、糸の数も姿も頼りない。誰が助けてくれるのかもはっきりせず、社会の塵となって消えても不思議ではない。ただ一つ未来のいい点は、それが誰の決めたものでもない、僕のものだということだ。そちら側にあるのは自律した決定主体としての個人であり、書き込むだけの余白を備えた自由な存在であるように見えた。

 

喪失感は半端ではない。正直、人生を生きる上での目標を失ったような感覚が続いていて、いまいちどうしたら良いのかが掴めない。いまはとりあえず幕間なのだと考えるようにしている。第一幕だか第二幕だかがこれで終わったのだ。ここで脚本家が変わり、大河ドラマから近未来サイバーSF作品になります、というわけだ。この先には何も書かれていない。それならば好きに生きて、意志が僕の今後をどう変えたのか、少しずつ立て直しながら眺めてみようと思う。Brexitが起きて、トランプ大統領が当選するような予想のつかない現代で、自分でも想定外なこの決定が、どういう第二の運命をもたらすのかを。最後に、僕の好きな随筆の一節でも置いておこう。

 

 

わたしの第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。この点でわたしは、どこかの森のなかで道に迷った旅人にならった。旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一カ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。

...

そしてこれ以来わたしはこの格率によって、あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち、良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから、解放されたのである。

 

(ルネ・デカルト方法序説』、谷川多佳子訳)

 

 

 

 

「生存の質」の危機の中で、登場人物になる個人

東京大学は、未だに世界でも有数の研究機関であるとも言えるし、数十年前は考えられなかったぐらい世俗化して堕落した娯楽機関であるとも言える。2つの現象は同時に起こっており、「東京大学」という固有名詞一つでの評判分析はほぼ不可能である。東京大学に限らない。かつて社会の確固たる前提としてそびえていた組織が、いまでは文化祭のハリボテ背景のように見えてくることもある。設計に関し大した議論や狙いがあったわけではなく、ただ単にそこにあるだけで、なにかいいものが出てきたら壊されてしまってもおかしくはないのだ。

 

長期的な将来予測はいつも難しいが、今後ますます目につくことを一つ予想するなら、権威の崩壊だと思う。東芝、医学部、省庁、今まで外部者には堅固な、何事においても存在が前提とされていた組織体が影響力を限定的にしていく。崩壊という言葉があまりにも強すぎるのならば、以下の3つをその内容として説明してもよい。

  • 一貫性の欠如:組織や個人におけるブランディングが一筋縄には行かなくなり、必ず理念と相反する事例が見つかる(服飾ブランド。技術企業。入試問題)
  • 一流性の欠如:性能において世界一とされていたものが、分野外からの参戦により格下になる(将棋や囲碁ひいては科学的な数理最適問題。既存の一流企業や教育組織。米国と中国の関係)
  • 内外区分の欠如;生存の質の危機から、組織内外を問わず個人間での「遠くをつなげる」ネットワークの価値が高まる

 

一方で、権威なしでは生活基盤は保たないことも事実である。採用に1万人の応募があったとして、時間制約からどこか凄そうなコンテストの受賞歴を参考にせざるをえないことはあるだろう。組織の卒業生間の関わりから活動が進むこともある。家族との兼ね合いから安定した会社員生活を取らざるをえない家庭もあるだろう。

 

そのような世の中では多くの人は常に先を考えることを迫られる。それは生存の危機だからだ。

 

いやもっと突っ込んで理解すれば、それは生存の質の危機だからだ。

 

世界には生存の危機が毎日のように襲ってくる地域がいくつもある。今日の昼に食べるものを確保できるか毎日心配しなければいけないところや、銃撃がいつ起きても不思議ではないところというものがある。それらと比べたら、権威の崩壊による問題は、遙かに多くの前提が変わらないという意味で、安全地帯での問題にすぎない。余裕がある地域の人たちが考える課題、いかにすれば私たちはより公正で、あるいはより効率的で、あるいはより心に豊かさを持つことができて、あるいはより持続可能な生活を送ることができるか、という課題だと言える。存続は既に保障されていて、最適化が問題となる。それは多くの場合個人としての充実感のためであり、時には社会に対する希望のためでもある。

 

個人としての充実感のある生活を目指す場合、ある人は人とのつながりを大事にし、仮に会社が倒産しても社会資本をセーフティーネットとしてやり直していけるだろう。またある人は貴重な業務技術あるいは業務とは無関係な技術を磨きながら傭兵のようにどこでも働けることを目指すだろう。あるいはそのような常に維持や変化を迫られる世界にウンザリして、資本を蓄積して若くして束縛のない生活を選ぶ人もいるだろう。個人が語るストーリーはますます物語の様相を帯びる。あなたは生涯いくつの職業に就くだろうか?エンジニアから管理職になったあなたはアイデンティティをどう確保し続けられるだろうか?証券会社からWebサービスに転職したあなたは自分を何だと説明するか?売却をし富を得たあなたは、自分が社会のどこにも必須でなくなった感覚をどう位置づけるだろうか?あなたは、いくつものPoint of No Return(もう以前の状態には戻れなくなる時点)を経てストーリーがクライマックスを迎えたとき、どういう人でありたいだろうか?

 

この時代に最も必要なものは、良い物語(という名の統計モデルーー権威が崩壊するほどノイズが高い時代に、人の行動の分散を全て説明することはできない)である。多くの人の頭に残り、原動力と意志の力を与え、自己同一性と一貫性を保たせ、最適化が進むという意味で正しい北極星を指し示す良い物語である。そのような物語をどう構築し、どう共有していくか?は現代の一般的な教育制度で教えられているものではなく、少数のリーダーが「著者」となって作っていくことになるだろう。私たちはどんな未来を描けるだろうか?

 

驚きと願いくらい、自分のものにさせてくれ

何十年と生きていく中で次第に変動が収まっていく類のものがある。

 

一つは信念である。私はOSINTが働くと信じているし、それを実践しながら生きたいと思っている。日々過ぎ去っていく些細な通過物として曖昧に認知しているもの同士の中には、ときに感動と興奮が収まらなくなるような関係性の煌めきがある。そのような奇跡を追いかける人生でありたいと切に願う。たとえ論文にならず、金銭に結びつかず、評判にならず、多くの人にとって自明であり、そればかりか最初の認知は誤っていたとしても、自分の驚きに対してぐらい正直でありたいと思う。私にとって驚きは、多くの人にとっての涙や歓喜かそれ以上に、自分と、自分の人生と、なによりも自分の人間性を規定し続けている大切な感情で、これはどうやっても譲れない。

 

世の中には、公開する情報を制限することで利益が得られる類のものがある。粉飾決算縁故採用を持ち出さなくても、ある組織には同時に数人だけが映画を見られる制度があった。あまり知られていないからこそ成り立っていた。名の知れた企業の社員と一対一で模擬面接を行える抽選の制度もあった。道端で配られる製品はどれも先着だろう。そういう類の利益は、個人的にどうしても好きになれないのだ。小さい頃から、無料で手に入る素晴らしいものをできるだけ多くの人に共有することが、自己にとってこの上ない幸福に思えた。

 

自分の、おそらくはやりたいことの10分の1もできないであろう残り限られたこの生涯に、そんな一時的で影響限定的な政治と経済に、自分の認知資源の一欠片も使わせたくはない。やりたいこととやるべきことは違う、それは正しい。でも私は、たとえグローバル資本主義が真実だとしても、世界の構造の網目に絡め取らないよう問題解決を続けられる程度には鍛えられた(と思われる)ささやかな自分の力を信じたいのだ。例えうまく行かなかったとしても、自分は納得していられるだろう。私は普段リスクを取らない。だけれども不安定な遠くに行くリスクは、自己の人間性を規定する願いと驚きを信じるという安定化の効用に劣るのだ。

 

物語は、文系が作る最強の統計モデルである。私はこのOSINTというモデルを信じる。開かれた世界で繋がれた異質なもの同士が、未来の方向を変えてしまうような場面を度々目撃したい。大人になった僕がそれでもまだ夢を持っている。若き日のフィル・ナイトが早朝のオレゴンで見た景色と、同じものを僕も見たい。彼が競技の開始音が鳴らされたあとの一瞬に人生を見出したように、僕は計算機とデータが世界をつなぐその果てのない行為のなかに、かつて歴史の中のどの世代も成し得なかったような世界規模の奇跡が生まれると人間性を賭けて信じている。それは僕の信念であり、僕が選んだ物語である。

 

僕はたまに、反応が演劇のように過剰だと言われることがある。だが実際のところ普通に反応しているだけなのだ。僕にとって世界における反応とは、いくつかの理想的な型があり、それをなぞることなのだ。その型を外れると途端に不機嫌になり、色んなことの精度が落ちる。誰かに何かを共有したいとき、それは別に聞きたくないと言われると、大変悲しくなる。逸脱を赦すことが昔から苦手である。

 

地平線はおぼろげかもしれない。行程に終わりは見えず、疲れて休むこともあるかもしれない。休んで語らう友人は、話を聞いてくれないかもしれない。だから驚きと願いくらい、自分のものにさせてくれ。何もかもが不安定な世界で、僕は出発点をそこに決めた。

 

 

MP-hard (Measuring is practically hard) な問題

コンピューターサイエンスの分野には、NP-hard(エヌピー・ハード)と呼ばれる問題群が存在する。雑に言えばその問題集合に含まれる問題にはある種の困難性が付きまとい、扱う対象の数が増えるに連れてすぐにまともに計算が追いつかなくなるというものだ。宇宙が始まってから計算していたとしてもまだ終わっていない、その手の計算問題が世の中にはたくさんある。

 

この話はコンピューターサイエンスのカリキュラムで出てくるのだが、
ふと、そのアイデアをデータサイエンスの文脈で考えることはできるだろうか、と疑問に思った。

 

計算量とは、計算にかかる手数(ステップ数)を大まかに調べるための道具である。そしてデータサイエンスにおける基礎的な計算として、調べたいものの状態を数値で測るというものがある。測った数値のことを一般的にMetrics(メトリクス)と呼ぶ。

 

現代の人々は多様なものを測りたがる。

 

飛行機のメーカーごとの内燃機関の平均回転数、ウガンダにおける紛争による傷病度別の負傷者、大統領がA国の諜報員と過去2年間で何度接触したかの相手別回数統計、採取された1億個の細胞の中で変異が確認できる割合、GDPが昨年と比べてどの程度向上したか、産業別ではどうか、地域別ではどうか、都道府県ではどうか、市町村ではどうか、各企業ではどうか、各社員ではどうか、各社員の1ヶ月の貢献割合ではどうか、各社員の1時間ごとの貢献割合ではどうか、中途社員と新入社員別ではどうか、勤続年数5年以下とそれ以外ではどうか。

 

こうやって一つの物事をどこまで細かく測れるかを追求していくと、小学生ぐらいのときに全てを書きつけようとして結局何も書けなかったノートのことを思い出す。取得して保存して計算するまでの手数が多すぎるという困難性が付きまとうのだ。

 

このような現象を、NP-hardに倣ってMP-hardと呼ぶことに意義はあるだろうか。計算量は一つだけ定義してもそれほど役立たず、他の計算量クラスとの関わりで全体像が掴みやすくなる。PをPractical(現実的でほぼ確実に計算できる)などだろうか。などという取り留めのない発想であった。