蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

專攻分野が決まらない高校生への計算機科学のすすめ

 

この記事は、「自分が気になることは、どの学問も同じくらい扱っている気がして、專攻を決められない」と悩んでいる高校3年生の男の子と話した内容を基に書かれました。

とても長いので、1回で読み切ろうとしないほうが良いかもしれません。

 

ポイントを4つにまとめると、以下のことを言っています:

・大学で学ぶべきは、実際に役立つ知識である。
・知識に基づいた実行の成果量によって、どれだけ役立ったかが決まる
・成果量の向上の出発点として、圧倒的に強力な道具であるコンピュータを專攻するのが最も妥当である
・…と、文系から情報系に転向して3年が経った今では後輩には薦められる。それは自己正当化のためかもしれないので、判断は自分でしてほしい 

 

1.大学という研究機関の意義

 


"Science is a system for accumulating reliable knowledge."
(科学とは、信頼できる知識を蓄積するための体系だ)

("Writing for Computer Science", p.1, Justin Zobel, springer)

 

 

高校生のときに学校の先生は教えてくれなかったでしょうが、
大学は研究というものを行うための施設(研究施設)です。

 

たぶん正しいと思われる知識(法則や体系など)を新しく増やしていく行為のことを、大学では学術研究、略して研究と呼んでいます。学術研究は、「夏休みの研究」と言ったときの「研究(何回も観察したり調べたりすること)」とは意味が違うので、注意してください。新しい知識を発見することが目的でなければ、それは大学においては研究(学術研究)ではないと言えるでしょう。学術研究をする人のことを、研究者と言います。

 

研究がいくつか行われた結果として、間違っていそうな知識が外されて、正しそうな知識が再選される過程まで含めると、ふつうは科学と言います。科学とは、誤りの「無い」真理は手に入りそうもないけれど、少しでも誤りの「少ない」知識に手を伸ばす動作、とも言い換えられます。

 

大学は研究者が活動する研究機関なのに、研究者になるつもりではない人もたくさん入学します。そのような人たちは、本人の意図はどうにせよ研究や科学の二次的な恩恵を受けに来ていると言えるでしょう。大学の授業で講師が話す内容や使うテキストは、将来の研究者を育てるために選びぬかれたものなので、科学の成果が凝縮された大切な1片だと言えます。たまに企業の人が来てウチの会社はすごいんだと宣伝していくだけの授業もありますが、テレビ番組におけるCMのようなものなので、気にしないでください。

 

科学で扱われる内容は、何の検閲もされていないネットメディアや、何となく日常で過ごしてたら発見できる眉唾ものの法則と違い、誤りが少ないので、優先順位からすると知る価値が高いと言えます。大学生たちは、研究者になるつもりではない人も含めて、正しそうなことをできるだけ早く知ることによって、この不確実な世界における支えを手に入れようとしています。

 

一言で言えば、大学は、研究者になる人にもならない人にも、価値ある知識を与えることに成功しています。

 


2.大学の限界

 

Human knowledge and human power meet in one; for where the cause is not known the effect cannot be produced. Nature to be commanded must be obeyed; and that which in contemplation is as the cause is in operation as the rule."
(人間の知識が、支配力と全く同じものに変容する瞬間がある、というのも発生原理を知らなければ結果は再生産できないから。自然は、これに従うことによってしか従わせることのできないものであり、認識された「発生原理」をうまく制御することで、ほぼ思い通りに動かせる。)
(帰納法の先駆者であるフランシス・ベーコンの著書より)

 

 

知識は蓄積することだけが目的ではありません。それは大学にとっても、それぞれの学生にとってもそうです。知識の目的は、それを使って何か決定を下すこと、下した決定に沿って実行することにあります。信頼できる(=現実で使っても矛盾しない)知識を獲得したことの威力は、実際に実行してみて、ビックリするほど思い通りに対象が動きだしたときに、初めて感じられます。

 

上述したとおり、大学は正しい知識の伝授という点においては一流ですが、それらの知識を活用した、いちばん良い意思決定の仕方や、実行の仕方についてはあまり体験できません。

 

社会や団体レベルの実行は、政策や規則の施行(増税や救急機器の設置義務化)、あるいは規則的な現象を起こす物体の設置(新国立競技場の建設やリニアモーターカーの敷設など)というかたちで、個人レベルの実行は、具体的な行動のかたち(雇用契約の締結や、有識者への売り込みなど)を取ります。

 

しかし、大学が知識蓄積を本義とする組織であるのだとしたら、どうやって上に書いたような個人/団体/社会レベルの意思決定や実行に取り組んでいけばよいのでしょうか。

一つのアプローチは、実行については実行力を持つ企業や政府と、すなわち産官学で協力する、というものです。

 

このような背景によって、研究者にならず就職した学生だけでなく、研究者として就職した学生も、最終的には企業と関わることになっています。

 


3.成果の普及インパク

 

"The future is already here — it's just not very evenly distributed."
(未来は既に現在に存在するーー普及していないだけだ。)
(SF作家であるウィリアム・ギブソンの警句)

 

2014年に年間で数兆回の検索を実行しているIT企業Googleは、創業者ラリー・ペイジが大学院生だったころに書いた1998年の論文の技術を基盤にしています。彼は執筆の同年に大学を休学し、Googleを創業しました。

 

2006年にジェフリー・ヒントンという大学教授によって書かれたとある人工知能の論文は、大して注目されることもなく知識の山の中に埋もれました。しかし2012年、彼の技術を利用したプログラムが、画像認識の世界大会で、常識から考えたらありえないほどのぶっちぎりで優勝したことで、論文に記述されたその技術が一躍脚光を浴びることになりました。同年に彼は会社を立ち上げ、その翌年の3月にはGoogleに買収されました。現在、その技術はAndroid携帯の音声検索に用いられています。

 

これらの2つのニュースが示唆しているのは、大学という研究機関単体では実行まで完了できないという事実、大規模な社会での成果は企業体による応用に任せられているという事実です。あなたが研究者にならないとしても、研究機関で獲得した知識は企業でこそ最大に活きるはずだということです(枯れた技術の水平思考ということばも存在するくらいです)。

ヒントンが所属していたトロント大学は、06年に既に技術を手にしていたはずなのに、その可能性に12年まで気付かなかった。のちに10億台のAndroid携帯に搭載されるような技術に。もっと歴史を遡れば、06年に発見されたアイデアに近いような論文は1979年時点で既に記録されてはいます。

 

知識を蓄積するだけの時代は、もう終わっています。
研究成果が世界のどこまで普及するのか、その一点に意義が集中しています。

 

一番ひどい例になると、ある種の学問(学問の方法論)は知識をただ蓄積するだけで、何の決定も実行もしません。どんなことでも、実際にやってみると思っていたのとは違った、ということはありますが、その「ある種の学問」は実際にやってみることすらしないのです。実際にやってみたら、貯めてきた知識が全否定されることがあってもおかしくないのに、そんなリスクを想像することすらなく、ただただ知識を深めていくだけの学問というのが、現在の大学には存在します。多くの企業や研究機関の注目が集まる分野の論文ですら、応用を実際にやってみせるまで6年間埋もれ続けていたことを忘れてはいけないと思います。況や他分野をや。

 

実際にはその研究がやっていることは新しくも何ともなかったり、その研究の成果とされていることは実際に現実で運用してみるとまったく効果を発揮しなかったりするのに、「この知識には価値がある、ある、ある」と勘違いして、熱意と勢いと伝統だけで研究しているように見せかける、追放すべき絶対悪です。
 2015年の現在には、研究というのは思いついても「既に誰かがやっている」ことが大半です。ましてや、2,3言語程度でしか情報にアクセスしていない学部生がちょっと考えて出したぐらいのアイデアなんて、とっくの昔に研究され尽くされているか、実際には動きません。

 

かつては、思想を広めることが大きなインパクトを持っていた時代がありました。
時代の思想に従い、制度を定めた国もありました。

 

嗜好が多様化した現代においては、全人類が同じプロパガンダを持つことは考えにくいです。無印良品を通してブランドの思想に馴染んでいく、それは確かにあるでしょうが、その人数が決してマスの規模に辿り着くことはないでしょう。世の中は、本当にこんな考えが好きな人がいるのか、という人たちでバラバラになっています。

 

Android携帯への「思想」のインストールは短時間で済み、それらは完全に同一です。そして、Androidは命令した通りに動きます。

 

 

4.電子計算機の普及後の、資本主義での人間観

 

"就職して1年くらいすると,僕はプログラムが書けるものですから,エクセルとかでもマクロを組んで,自分の仕事のかなりの部分を自動化していました。他の先輩が2~3日かけてやる仕事を,僕はボタンをポチって押したら終わるみたいな。で,余った時間で何してたらええんや!と持てあましてたので,業務時間中にこっそりとゲームライブラリを書き始めたんです"
(プロ棋士に勝った将棋プログラムの作者の対談記事より)

 

 

コンピュータは、「昔からある研究」の価値をまるっきり変えてしまいました。

 

昔は、中国の歴史書に出てくる「塩」という字を時系列で追う研究は、何年かけても研究になりました。現在その類の研究は30秒もあれば終了します。

 

もちろん、実際にはテキストを電子化したり、内容を解釈する時間があるので、そんな単純には行きません。しかし、どれだけ少なく見積もっても研究のスピード感は少なくとも10倍は早くなり、結果として研究のコストパフォーマンスはまるで変わってしまいました。現代にそのような研究で数年間ぶんの研究費を獲得するのは、ほぼ不可能といってよいでしょう。そのような研究をやりたければ、検索用のソフトウェアを企業に外注して、数ヶ月規模の研究としてプランを組むのではないでしょうか。

 

そして、研究に必要な道具も驚くほど変わってしまいました。テキストの電子化の際にはハイパーテキストを学ぶ(実際、文学部でXMLファイル形式について講義しているのを見たことがあります)、電子化困難な写本は画像にしてiPadで閲覧する、文章の特徴を推定する際にも電子テキストに対する統計的手法が役立つ、授業中はアプリ辞書で用例をチェックするといった具合です。

 

政治学科では、政策の効果を分析するために仮説検定や重回帰分析による統計解析を行います。経済学部では、取引の9割がコンピュータによる自動取引だとも噂される株価の形成過程について仮説を立てて検証しているのではないでしょうか(こちらは詳しくないのであくまで想像です)。その際に計算機によるシミュレーションを使うこともあるでしょう。僕の友人は排出ガス規制を定めた国際条約における「公平」を調べるために、C言語数値計算をしていました。

 

これらの計算をする際にコンピュータは実質不可欠です。

 

この話は、研究(新しい知識の発見)に限らず、あらゆる労働にとってあてはまります
私たちは実際のところ、図式的には、どの作業をコンピュータに任せることができるかというのを各自が判断して、任せられない部分をブツブツ言いながらこなすアナログ計算機の役割を果たしています。


コンピュータに任せられることをたくさん知っている人は、それを力にして、うまくなまけることができています。
コンピュータに任せられないことのうち、高給な仕事を知っている人は、それを力にして、ほかの仕事と大して変わらない業務内容でたくさんの給料を貰っています。

 

あなたはアナログ計算機であり、電子計算機ができない処理を行う存在です。
その上で、コンピュータにどの仕事を任せられるのか判断に自信が持てない場合は、
計算機科学(情報科学)を専攻するか、せめて專攻する友達を作ることを強くお勧めします。

 

私は別に、計算機科学者になるべきだと言っているわけではありません。第二次世界大戦中に急に登場して1世紀以内に何もかも変えた計算機の「科学」を開始点として、もう一度自分がやりたいことを見なおして欲しいということです。

 

(最終章)5.学部教育による世界観の固定化

 

 

「率直に言って、一流の小学校、中学、高校、大学、大学院に行った方が良いです。初期に配られるカードが全く違うので。大人は、これははっきり教えた方が親切だと思います。すでにカードが配られている人に逆転の可能性を説くのはそれはそれで意味がありますが、これからの人に誤解を与えるのは罪です」

(京都大学客員准教授の瀧本哲史bot、2013年11月4日)

 

 

計算機科学なんて全く関わらずとも社会的に成功した人は山ほどいます。
でもだからといってこのカードをこれからの人に配らないのは罪です。
一流のツールと一流の思考法に出会うチャンスを、初めから潰しています。

 

学部教育は、あなたの意思決定に生涯影響を持ち続ける価値観の形成に、重大な影響を及ぼします。私がこんな記事を書いていることがその証左です。

 

私は、他国の言語をたくさん学ぼうと思って大学に入学しました。
文学部志望でした。

 

2年間の一般教養で考えるところがあり、賭ける思いでコンピュータ科学に專攻を変えました。数学は苦手でした。プログラミングは素人でした。

 

理系からストレートで計算機科学をやってきた子は、こんな記事を書きません。
彼らは文系に比べて自分たちが遥かに強力な、知識をあっという間に力に変えられるという意味で強力な、一流の知識の束を学び、実際にプログラムを書くという形で意思決定し、実行しているということを、ふつうのことだと思っているからです。むしろ宿題に忙殺されていて、それどころではありません。

 

コンピュータをうまく使えない後輩など、問題の数に入りません。

 

 

信頼できる知識をいちばん蓄積しやすい計算機科学における知識の増加スピードは、世界全体で見ても個人の頭のなかで見ても他の比ではありません。作業スピードが10倍になるようなツールを1つ知っただけで満足なのに、そのようなツールが次々に現れてきます。2013年のある論文では数日かかっていた計算について、同じ年の終わりには2時間以内に終わる方法が見つかって別の論文で報告されていました

 

 

 

時間がかかるはずだった作業を手早く済ませられるようになった。
空き時間ができた。
ではこの時間で、人々や自分を悩ませているどの問題なら解けるだろうか。

どの問題なら計算機で解けて、どの問題は人手が必要だろうか、…?

 

 

 …

 


以上が、文系から情報系に転向して3年経った学部生である私が、
後輩に向けて伝えられる意見です。

 

ここで述べられた意見を説得力のあるものだとみなすか、キャリアの自己正当化のために書かれた視野の狭い誤解だらけの偏見だとみなすかは、專攻を決めるみなさん自身が判断して下さい。

 

 

 

 


参考動画
ハーバード大学における、文系向けComputer Scienceの入門授業であるCS50。日本ではコンピュータ・サイエンスはダサい・暗い・チマいといったイメージが強いように思いますが、こんな現代的なノリの文化も海外にはあります)