蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

東大に落ちた18歳のきみへ

やあ。落ち込んだ顔をしているね、きみ。

 

無理もないだろう、高校からずっと目指してきた第一志望の大学に、現役不合格というかたちで拒絶されたんだ。合格掲示板に並んでいた、君より前の受験番号たちはやけに番号の間が狭かったから、いきなり自分の番号も含めて15番も飛んだことにビックリして、信じられなかっただろう。何度も何度も、何列も何列も、注意深く番号を確認したのに見つけられなかった。君はいつのまにか湯島三丁目にいた。あまりに気が動転してその場を抜け出したんだ。あのときの体のほてりを今でも覚えている。ショックで胸が一杯だろう。僕の声もあまり耳に入らないかもしれない。

 

でもね、僕は、

きみに今日起きたことが、
これまでのきみの人生で一番良かったことなんだと、
そう伝えに来たんだ。

 

きみは他の大学を受けていなかったから、おそらく浪人するだろうね。あとすこし点数が高ければ、来月にはあの緑のきれいなキャンパスで大学生活を謳歌できただろう。君はまだ知らないけれど、あとで家に届く不合格通知書を見てごらん。きみが英語の試験で最後に書きつけた4択問題の答え。きみはbって書いたけど、あれは実はaなんだ。あそこで正答していたら、きみは受かっていた。

センター5教科7科目、二次試験4科目と、二ヶ月にわたって合計15時間以上もかけた大規模な試験の是非が、最終科目のラスト15秒で書き記した只1つの記号で決まったというのは何とも面白い話だと思わないか?候補者名を1000回用紙に書きつけたところで結果に何も影響しない大多数の投票制度に比べたら、きみが刻んだあのアルファベットは全く桁違いの重さだったわけだ。君は覚えている。あのときaにするかbにするか、本当に迷っていたことを。

 

きみはこのまえ、担任の先生に「受かっているかは五分五分だとおもいます」と答えたけれど、その感触はバッチリ合ってたんだよ。実は本当に採点基準一つで変わってしまうぐらいに、微妙なところだったんだ。かといってそんなところを当てても加点にはならないのが、大学受験の厳しいところだね(笑)

 

そんな紙一重で落ちたことが、どうしてきみにとって最高の出来事かって?それはね、ネタばらしをしてしまうと、実はきみ、来年は合格するんだ。そしてその年に出来たばかりの学科に進学する。きみが今進学を考えている学部じゃない。全く違う学部だ。そこで、きみの一生を変えるような人たちに出会うんだ。しかも数年後のきみは東京にすらいない。あれほど好きだった東京から離れる。それほどまでに、そこでの出会いが何もかもを変えてしまうんだ。

 

君がもし大学受験で落ちていなかったら、あのときaと書いていたら、君はその学科には進めなかった、そもそも存在していないからね。どうしようもない。東大の制度は留年を許すけれど、君は特殊な状況に居て留年ができないんだったね。だから留年によるそこへの進学はありえなかっただろう。

 

 

さて、きみが近い将来に経験するこの出来事から言えるのは、
人生最悪の出来事が人生最高の出来事になることもある、ということだ。

 

 

人の一生は本当のところ、何が良い結果に繋がるかほとんど分からない。もちろん勉強すれば試験には受かりやすくなるし、準備すればなんだって上手くいきやすくはなる。でも数年単位の事象間に生じる決定的な制約関係を見たとき、ほとんどの繋がりは事後的にしか分からないんだ。仲の良かった高校の先生が「東大じゃなくて、私大に行くことのほうが人生の成功に繋がることもある」と言っていたね。スティーブ・ジョブズはConnecting the dotsと言っていた。塞翁が馬という中国の故事に基づくことわざもある。この逆説はきみだけではなく、時代や地域を超えて観測された、普遍的なパターンなんだ。

 

だからきみに伝えたいのは、自分を信じてほしい、ということだ。

 

強調しておきたいが、自分を信じるのはとても難しいことだ。とくに数年かけて真剣に準備して望みの大学に入れなかった後なんかは。落ちたのはあそこで自分がサボったからかもしれない、計画的に勉強できていなかったのかもしれない、直前の詰め込みが足りなかったのかもしれない。試験中の集中力が欠けていた?当日の体調管理が悪かったのだろうか?自分の合格する素質や資格に対する疑念は次々と矢のように降ってくるだろう。自分を信じてほしい、というのは、それでも、何があっても、何としても、誰になんと言われようとも、自分を信じてほしいということだ。

 

わかりやすく言ってしまえば、
自分を信じるというのは、それ自体がいわば最悪の出来事なんだ。

 

彼や彼女に生まれていれば、愛情のある家庭で育てられて、安全な地域で過ごし、運動もできて、容姿にも優れ、他人からはチヤホヤされて、頭の回転も早くて入試なんて何の問題にもならなかっただろう、という思いが頭をよぎったことがあるかもしれない。自分はなんで気の利いたことがパッと言えないんだろう、なんでこんなに頼りない自分を信じなければならないのか、と憤りすら感じる人も中にはいる。

 

でも自分を信じるというのは、その最悪の出来事が、最高の出来事になる可能性に賭けるということだ。誰がなんと言おうと、君のなかの抽象的な他者がいくら批判しようと、どれだけの反対意見をぶつけられようと、抗うということだ。きみはその抗いとして、エネルギーを何かに注ぐ。その注ぎ方は完璧じゃないから、完全なメリトクラシー(業績主義)の中では批判は容易かもしれない。でも現実の世界は、誰かの素朴なメリトクラシーよりだいぶ複雑なんだ。

 

 

だから忘れないでくれ。
とくに絶望のさなかにいる今だからこそ。
何が良い結果に繋がるか、
ほとんど分からないこの世界で、
自分を信じるということを。

 

 

 

 

…えっ、ところで、未来のきみはどこで何をしているかって?うーん、言ってもいいけど、きっときみは信じないだろう。ひょっとしたらきみはその場所のことを知らないかもしれない。君が好きだった英語の講師が、「大学を卒業するときに自分がこんな職業に就いているとは思いもしなかった」と言っていただろう?そういうことが君にも起こるよ。学ぶことは、きみを遠くに連れて行ってくれる。それが学ぶことの力なんだ。

 

 

一説によると一度しかない人生だ、十分好きに楽しんでくれ。