蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

知性の行き着く先は、ファンファーレでなければならない

人生の中で、ただ一つ殆どどのような時にでも役に立つ最強の武器があるとしたら、それはなんだろうか。私は、それは「他者を味方につける方法」だと思う。

というのも、人間の一つの特色は、個々人が自分で意思決定する自由で自律的な存在でありながら、それと同時に、お互いが協力し合うことによって、より大きなことを成し遂げるという点にあると思うからである。

 

私はまだあなたのことを知らない。

 

会ったこともないし、聞いたこともないかもしれない。会ったことはあっても、形式的な出会いで深くを知らないかもしれない。それでも私には分かる。あなたと私はこれからそれぞれの場所で経験を積み、どこかで出会い、お互いの世界を知り、お互いの癖に眉をひそめ、そしていつかともに何か大きなことを成し遂げる。些細なことで対立し、奇妙な文化を作り上げ、忘れられない出来事を共有する。

私達はそれを誇る。私達はそこに、なにかひとりではできなかった、人間らしい豊かな「あみ目」を見出す。それが私達の物語である。まだ書かれておらず、目に見えないかも知れないが、しかし来る。それは予想外に予想通り展開する未来であり、終わってみれば采配通りなのである。ぼたもちさん、最初から私にはわかっていましたよ。

 

神が灰になった世界にあっても、鮮やかな希望はまだ遺されていた。我々は自律して行動を選択する主体であり、フォルトに耐えることのできる魂の魚群である。スケーラブルなシステムはそうでなくてはいけない。ハリボテを倒しに向かう人もいれば、記号を解読する人もいるだろう。網を作る人も居れば、空気を読む人も居るかもしれない。我々は分散投資をしている。分散投資をして、たまにカレーを一緒に食べる。生きてゆこうと思えるような社会を想像し、設計し、実装し、そこに生きることは幸せである。それは革新を志向しない静的な社会よりも高貴であり、投資する価値がある。

 

世界に遺された意志のきらめきを見たときの、この希望を人生の参照点の一つとしよう。埋められた木の実がまだ芽を出していなくても、その芽吹きを信じていたリスの真正さを覚えておこう。土へ還ったリスは役割を果たし、物語はまだ続く。この先はまだ何も書かれていない。ただ森は大きくなったと記述があるのみである。

 

知性の行き着く先は、ファンファーレでなければならない。待ち受けている難題の数は問題ではない。無力さも問題ではない。我々が葦であろうが、卵であろうが、塵であろうが、大した問題ではない。人類は道具を作り、その革新力を強化してきた。馬車を作り、水車を考案し、観覧車を建て、そこに純文学の思想的建築まで建てた。我々は見えない梃子でして世界を動かすことに惹かれ、こうして現代的な道を選ぶに至った。自由人であろうとするならば、漆黒に呑まれることなく、その夜空に星座を描かねばならない。

 

学問は中立的かつ客観的に世界の様相を描こうとするかもしれない。だがしかしそれを行う私たち人間は、したたかに楽観的で偏っていなければならない。なぜなら、世界から取り出した任意の一部分を自分の意志で増幅できることこそ、人々が持つ中で最も尊い力だからだ。

 

最後に私が尊敬する技術者の言葉を贈ろう。

 

「現実に存在する実装が不完全なことと、設計された概念が本質的に不完全なことを混同してはならない。我々の多くが朝起きて仕事に向かうのは、そこにまだ改善の余地があるからだ。 」