蛍光ペンの交差点[別館]

"どの点に関心をもつべきか ―をわれわれが学びとるのは,もっぱら仮説からだけである"

人は日記に一日の何を記録するべきか

読者の反応を目的とする「記事」を書くことが増えた。

反面、自分が見て何かを確かめるのを目的とする「日記」を書くことが減った。

 

1日をどう記録したら有意義か?とふと考えた。

 

全く記録しないのはどうか。レポートの更新日時などやTwitterなどの何気なしの呟きで、かなり多くの行動が記録されている。それで十分ではないか。日記など必要ない、?

 

いや、足りない。

 

反論はいつもこうだ。「そんなに都合の良い構造に、何も細工をしていないデータがなっているはずはない」…無意識に書いただけのものが、あとで役立つと考えるのは楽観的すぎる。仮説なくして集めたデータには多くの場合、統計的処理がかけられない。統計的処理はおろか、強いバイアスのかかったデータでない保証も少ない。役に立つどころか、良くない結果すら引き起こしかねない。

 

結論を書くと、自動記録させるものを意識的に設定しておいたり、呟いたりするのが最善だろう。そこで終わるのが一番だ。あとはコスパが悪い。

 

だが、そこでやめない。

以下ではあえて日記について言語化する。

 

少なくとも僕は3年間日記を書いた経験があり、1年間日記?のようなことをした経験があり、大学入学後1年ほどはまた日記を書き、その後3年間まるで随想のような呟きを続けてきた。

どうしてだ。

自分がやってきたことの位置付けを一度再確認しておきたいのだ。

若さを無駄遣いしたくない。今自分が、絶望と希望の揺れ動きの中で毎日を過ごしているのは、どこかおかしい、いや改善の余地が有る気がするのだ。

 

昔は、絶望も希望も、両方共最上のものを経験した人間が、一番だと思っていた。

今は少し違う。

実際には絶望の色は濃くて、希望を何度も反復しないと、何度も、何度も何度も反復しないと、あっという間に呑まれてしまう。それはパフォーマンスを下げ、人生の楽しみを骨化させる。

 

「どうして」「まるで」「日記のようなのか」。

「一日を」「なぜ」「記録しているのか」?

 

 

日記を書き始めたのはいつだったかもう覚えていない。

 

確か小学生のいつかだったと思う。中学生では書いた覚えがない。ただし中学2・3年のいつかに、クラスの女子に「一年前の日記見なおしたら、本当に▲▲について考えてたー」みたいな発言を受け、日記ってそうやって時を超えるためにあるのかと衝撃を受けた覚えがある。あの衝撃が今でもこうやって振り返ろうとする原動力になっているのだろう。

 

継続的に書きだした時期ははっきりと覚えている。高校1年生の入学直後。確かそれから3年間で1000記事くらい書いた。ほぼ毎日書いたわけだ。内容は絵の練習とか、部活で考えたこととか、予備校の感想とか、他愛もないものだった。「日記」なのに「記事」にしていた。あのときは純粋で、マーケティングという言葉も知らなかったし、人に読まれるためにタイトルに数字を使ったりなどテクニックを駆使することを、たとえ知っていたとしてもそれをズルだと思って忌み嫌って使わなかっただろう。

 

日記のようなこと、というのは、「一日どれだけ歩みを進めたか」を確認する作業だった、ということだ。自習机の前で目を閉じて、余った裏紙に薄い字で、その日新しく覚えた事項を目標10個箇条書きするようにしていた。古文の文法、漢文の重要漢字、世界史の新単語、数学の解法、英単語。浪人で不安だったから、どれだけわずかでも進んでいる確信がほしかった。そして20も30も書けた日は、少しの安堵のもとで自習に向かえた。

僕にとってそれは、日記だった。

 

大学1,2年のあたりで書いていた日記は、大して参考にならない。記事になりつつあったし、良い記事ではなかった。ツイッターで独り言のように長文を書くのはある種、浪人時代のあの箇条書きの延長線上にあるのかもしれない(不思議なことに、紙に箇条書きをする、という当時は言われなくても続けた復習方法が、なぜか大学に入ってから出来なくなった。なんどか試したが上手く行かなかった)。

 

 

よし、だいたい分かった。

 

まず、もし日記を書くのなら、その日手に入れた知識がいい。

参考書の執筆者」になるわけだ。その日手に入れたばかりの知識より、その日以降の知識が正確である保証は少ない(初期の知識が不正確なものであるような、数学や情報の新概念、歴史的な事実でない限り)。その日手に入れた知識で固定しておきたいもの、それがおそらく一日の記録として残すべき単位だ。

では感情の揺れ動きは記録すべきだろうか?感動したとか許せなかったとか?これも恐らく再現性の問題だと思う。また再現したい感情であれば、徹底的に感覚現象を言葉でスケッチし続ける。アスリートがベストスコアを出したときのビデオを繰り返し繰り返し見るように、自分の感情がパフォーマンスを上げるものであったときの感情は、貴重だ。注意という認知資源より、遥かに希少性が高い。ピン止めする価値がある遺産だ。それは心を強くというか上手く保つための、一つの手段になるのだろう。

 

感情の記録はツイッターで済むか?多分、分が悪い。日記に書く感情は、再現したときにより成長しているようにする目的のためナルシストに美化すべきで、人が見た場合に奇異に感じる類のもの、もっと言えば「イタい」類のものではないか。もしくはイタくない場合、推敲に推敲を重ね、保存の価値のある「美しい」類のものだろう。

 

そのような性質を呟きが持てるとは思えない。数も多すぎる。もっと少なくていい。多くて週2,3。毎日違う感情を持つより、一度は持てた最高の感覚を再現するイメージが良いのではないか。それこそが日記ではないか。

 

となると、恐らく僕がこれまでの経験をソースとして、形成した仮説は以下だ:

 

  • 日記は、パフォーマンスの高かった自分を脳内神経に載せるためのものである。
  • その日得た知識を、箇条書きで書く。紙に殴り書きでも、電子機器にタタタッターンでも、とにかく続けられる手段で書く。声ですらいいかもしれない。(ただし可視性が圧倒的に落ちる。でもまあ手書きでも検索性がないか。完璧主義よりかはいいかも)
  • パフォーマンスが高かったときの感情については、美化してもいいし、どれだけ推敲に時間をかけてもいいから、克明に記録しておく。その日記は何度も読み返すべきで、そのことによって「パフォーマンスが悪かった日は日記に書くことはせず、良かった日の感情を読む」ことに当てる。

 

 

昔の自分を記録するもの、とだけ曖昧に言われるけれども、日記の本質はおそらく、思い出したい自分をモデル化して再回収することにある。カロリーや歩数を記録する人も居る。起床時間や温度を記録する人も居る。好きならそれもいいだろう。ただしIoTで自動化が進み、手書きで行う類の情報では、ますますなくなっていくだろう。

悪しきことを書くのは厳禁で、実はそういう日は書くためではなく読むためにある。

 

昔、哲学好きの友人2人がこぞって、朝起きた時の自分は、昨日の夜に寝た自分とは違う気がする、と共感しあっているのを見て当時は不思議に思っていた。しかし、人間は確かに変動する。彼らが日記を書いたら、朝の自分に向けた遺産と表現したかもしれない。