蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

とてつもなく巨きな岩が、ほんの少しだけ動くこと

人は大抵変わらないと思う。

 

だけど、時に運命のいたずらで、それが変わってしまうほどのトラウマを体験することもある。それは大地震だったり、テロだったり、戦争だったり、個人を変える大きな力を持っていて、人を変えてしまう。そして人に話せない。話しても伝わらない。何度話しても、何年かけてどれほど言葉を選んでもダメで、その媒体に移らないという意味で言葉にできない。本人の性格によっては誰にでも話せる形にパッケージして言及する人もいるけれど、本人が感じた重要な部分は伝達できない。

 

そういう経験をする人たちが世の中にはいる。昨日まで青色だった空が今日から赤になってしまったと感じるぐらい、物理法則が変わったように感じられるほどの経験をした人たちが。世界観が維持できなくなり、不可逆に失われ、新しい世界で過ごすことを余儀なくされるという意味で一度死んだ人たちが。

 

今思えば自分は、あのときにそれぐらいのショックを受けたのだと思う。その間に何年の歳月が経ってもなお、振り返ったときに真っ先に参照点となるような出来事。

 

数年に一回、その物事について解釈が進むことがある。あの出来事は何を自分にもたらしたのか。何が変わったのか。何が残っているのか。そこからどれくらい遠くまで来て、状況も時代も変わって、その中でその出来事がどのような磁場をもたらしていて、その磁場がどう変化してきているのか。その進みは人には本当に微かなものだと思えるだろうが、どうしようもなく腑に落ちて、しばらく動けなかったりする。とてつもなく巨きな岩が、ほんの少しだけ動くことが、長い目で見れば、それからいろんな変化につながったりもする。

 

誰かが昇進した横で自分はいつもどおりの仕事をしていても、誰かがいいパートナーを見つけてうまくやっている横で自分が孤独でも、誰かが易々と大金を得る横で自分はつつましく過ごしていても、得られる幸せや安寧はある。小さくてもフルな状態は有りうる。経済や健康に関してある一定ラインを超えると、あとは自分の想像力と世界観によると思う。巨きな岩はそこに接しているみたいで、特別な意義がある。

 

窓を開けて、外の汚れた空気を吸い込むと、いつもより少し澄んでいる気がした。

それは最後ではなくて、全ての瞬間だから


日々を過ごすなかで、楽しさは不可欠だと思うようになった。

楽しさは単なるエンタメや娯楽に留まらず、様々な活動につけるある種の胡椒や醤油みたいなもので、いろいろなものに合う。活動によっては楽しさというか「ツラくはない」ぐらいになる。ゲーミフィケーションはその1つに過ぎなくて、楽しさを開拓する営みは、もっと幅広くて奥深い。

 

すべての楽しさを捨ててまで他を最大化するルートはある。それはgrinding、すなわち過酷なルートであるので、一般にGルートと言われる。Gルートの主張は、「誰もが完全な幸福を手に入れたN+1世代目」をできるだけ早く実現するために、それまでの世代を犠牲にするべきだというものだ。確かに楽しさが消えるほどに突き詰めれば、単純な指標が改善することもある。目的のためには楽しいことばかりやってはいられないのも真だろう。それでもGルートの主張は合理的ではない。時間軸を千年単位で眺めて、仮に『ホモ・デウス』で説かれる非死や神性が達成されたと仮定しても、完全な何かにはまだ程遠い。N+1世代目はおそらく訪れないため、Gルートのエンディングは全世代の不利益に終わる可能性が高い。そしてGルートのエンディングを興味本位で見ることはできない。

 

もうひとつ別の道もある。悲惨なミライに絶望し、無力感と倦怠感の中で過ごし、たまに気晴らしもするけれど、大枠としてはただ崩壊を待ち続けるというものだ。このルートは特に何もしなければエンディングまでたどり着けるので、No actionルート、略してNルートと呼ばれる。GルートもNルートも楽しさからは縁遠い。

 

もう一つだけ別のルートがある。
それはPeopleの頭文字を取ってPルート、または「人々の辿る道」と呼ばれる。

 

Pルートは、自由意志を仮定された個人が、各自の判断でいろいろな選択をしていくというものだ。自分だけを優先して行動することもあれば、将来世代の利益を考えることもある。

 

PルートはGルートと違って、特定の「終わり」の瞬間で目標を定義しない。ゲームに勝つことではなくて、ゲームを続けることが目標だ。Pルートにとって重要なのは、最後ではなくて過程、もっと言えば全ての瞬間だ。それぞれの世代が健全なかたちで頭を悩まして、満足感に満ちた生涯を過ごすことにPルートの意義がある。Gルートを望む理想主義者が心に描く「完全な分配」ができない中で、この分配は一つの最適を達成している。

 

Pルートは各個人の同質性を求めない。尊厳は各個体が持つ定数として割り振られ、保全される。ただし、尊厳は相互に対立し合うときは毀損されるし、対立がなくても孤立して自滅することもある。そのようなかたちでPルートは痛みに溢れており、ゲームバランスはあちらこちらで壊れている。投げ出したくなるような展開が待っていることもある。自分の世界観が覆ってしまうような悲劇も、ひょっとしたら起きる。

 

PルートはGルートやNルートより圧倒的に手間が多い。ひとつひとつの行動をいちいち考える必要があって、頭が痛くなる。不満足な結果に終わることもしょっちゅうだ。Pルートで遭遇する何についても解ける保証はない。戦争の時代に生まれた世代は、平時の意味での幸せに出会えないかもしれない。

 

それでも、Pルートを愛する人たちがいる。
様々な視点から楽しむ自由を与えてくれるからだ。

 

何かを変えようと行動を選べる。
ツイてないことを鉄板ネタにする。
大切なものを失ったら、残っているものに感謝する。
感謝すら出来ないほど落ち込んだときは、たくさん泣く。
そうして8年ぐらい経ったとき、自分がまだ歩けることにふと気づく。

 

Pルートは快適でも単純でもないが、私達を見捨てない。
それは最後ではなくて、全ての瞬間だから。

 

人間の興味深い点の一つは、前に誰かが言っていたように、
どんな悲劇や些事にすら、誰かが意味を見出して進んでいく点だと思う。

 

Pルートは人間ドラマに溢れていて、感情を強く揺さぶられる。
いつも転んでいた子が、歩けるようになる。
まったく天文学的な確率で、運命の出会いが起きる!
予想もしていなかった場所で、驚くような大発見をする。
Pルートはやみつきになる。純粋な感動に出会えるからだ。
個性豊かなエピソードに溢れており、話が尽きることがない。
それは最大効率でないかもしれないが、真の意味で豊かである。

 

自分はそんなPルートを歩んでいくことにした。
現実がどれだけ取り返しの付かない形で壊れていようと、
フィル・ナイトがゴングの鳴る一瞬に見出したのと同じように、
人が知るべきあらゆることがそこに詰まっていると思ったのだ。

 

私は走ることが好きだが、馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたものもないだろう。ハードだし、苦痛やリスクを伴う。見返りは少ないし、何も保障されない。楕円形のトラックや誰もいない道路を走ったりしても、目的地は存在しない。少なくともその努力にきちんと報いるものはない。走る行為そのものがゴールであり、ゴールラインなどない。それを決めるのは自分自身だ。走る行為から得られる喜びや見返りは、すべて自分の中に見出さなければならない。すべては自分の中でそれらをどう形作り、どう自らに納得させるか、なのだ。

 

For that matter, few ideas are as crazy as my favorite thing, running. It's hard. It's painful. It's risky. The rewards are few and far from guaranteed. When you run around an oval track, or down an empty road, you have no real destination. At least, none that can fully justify the effort. The act itself becomes the destination. It's not just that there's no finish line; it's that you define the finish line. Whatever pleasures or gains you derive from the act of running, you must find them within. It's all in how you frame it, how you sell it to yourself.

『SHOE DOG』(フィル・ナイト著)

 

風とスプートニクが話していた。

 

完璧な文章は存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。

 

 

--- ☆ ---

 

Pルートを辿ることは自分にとってどういうことなのかについて、最後に語る。

 

僕は本を読むとき、傍線を引くのが好きだ。Kindleアプリならハイライトをよく使う。一方で「本に線を引くのは頭に残らないから意味がない」という意見も耳にする。読みっぱなしにしないで、能動的に情報を使ったほうが定着しやすいという話だ。なるほど確かに、情報を統合して活用する上では、線を引くよりも優れたやり方があるのだろう。

 

僕はその意見に深く納得した。

 

そうやって納得をした上で僕は、今日も変わらずに線を引く。これまでも引いてきたし、これからも引いていくだろう。それは要約して糧にするためではない。その傍線はむしろ足跡に似ている。本を読んだ過去の自分がどこに心を動かされたのか、記録するために引いている。蛍光ペンの交差点というタイトルは、そのような願いのもとに付けられた。あの日あの時感じたことを書き付けておいて、どの道を曲がって来たのか思い出せるように。人はどんなに大切なことでも、書いておかなければ忘れてしまうから。どの交差点での決断が僕を作ったのか、いつまでも忘れないように。最大効率の人たちには愚かで実りのない行動に見えるだろう。でもPルートでは全ての瞬間に平等な輝きがあり、各個人は自己判断でそれを選ぶ。僕の基準は驚きと願いだった。僕はそれらの輝きを、これからも蛍光ペンの中に残そうと思う。

 

何度も何度も9年も、思い浮かぶことを書くうちに、書いているときの僕は、とても穏やかな場所に居ることが分かってきた。書きたいことが何なのかを掴もうと没頭して、どこか別の空間に漂っている。その場所はとても不思議で、世界のどこに居ても訪れることができる。生まれ育った家からも、遠く離れた学校からも、たまたまそのとき住んでいたアパートからも、まるで世界に地域差なんてないと主張しているみたいに、平等に立ち入ることができる。その場所は夜のようでもあり、夢のようでもある。僕はその不思議な場所を、時間をかけてもう少し調べてみようと思う。

 

次の目的地は決まった。21世紀版の楽しさを探していくと決めた。
僕自身が驚くほど楽しみ、そして他の人も楽しめる何かを作るために。

 

《 2022年1月、Pルートのプレイヤーの手記より 》

 

自分のボイスを捨ててはならない

資本主義の中で正気を保つことは難しい。
自分が発している声が自分のものなのか、
あるいは資本主義にインストールされたものなのか、
分からなくなることがある。

 

資本主義の核に近づくほどに、いびつな矯正を強いられる。
痛みが薄れていくにつれ、それが唯一の正しい位置なのだと思いこむ。
痛みを感じることは誤りであり、効率的ではないのだと。

 

でも本当は違う。


私たちはそれぞれ違う子ども時代を過ごした。携帯のアプリのような同一のコピーではなく、バラバラの子ども時代を。本人以外誰も興味を持たないような雑多な詳細に満ちたもので、一見そこにエンタメ的な価値はない。

 

それはコピーすることに価値がある類の情報ではない。更に重要なこととして、だからといって価値がないわけではない。それは単に交換や複製といった操作ではその価値を観測できない、生身の人間を構成する部品なのだ。心臓や脳といった臓器に近い。神経回路の中に私たちの記憶は刻みつけられている。その記憶は机の引き出しの中の傷のようなものだ。外からは見えないが確かに存在している。その傷は、表面的には矯正されたはずの人間に対して、本当は何も直っていないことを静かに主張している。


私たちはそれぞれ違う日々を過ごしている。たとえ同一の宿舎に住んでいたとしても、体験は個別のもので、感想は個人のものだ。私たちは引き出しの傷のことを普段あまり考えない。それは体力のいるプロセスで、長く取り組みすぎると矯正が崩れてしまう。それは資本主義、あの資源の飽くなき私有の活動において、単純に不利になることを意味する。

 

私はそれでも構わない。私が志向するのはより包括的で人間的な生活だ。誰も興味を持たない記憶も私を構成している。私は資本主義が好きだが、その資本主義が私に「その役に立たないゴミを捨てろ」と命令したとしても、私は従わないだろう。私たちは資本主義の奴隷ではないのだ。人間はボイスを捨ててはならない。自分のボイスを捨ててはならない。

水を飲む

深夜、水を飲みに台所へ向かった。

 

二階の寝室のドアを抜けて廊下に出ると、明かりが漏れていることに気がついた。
起きていることが廊下から分かるということだ。深夜一時に起きている不養生を恥じた。

リビングに続く階段を降りながら、一段ずつ数えてみた。いち、にい、さん…15ほど数えたところで階段は終わり、床になった。最後が15だったのか、16だったのか、はっきりしない。いつも使っているはずの階段なのに、ずいぶん長かった気もするし、その割には最中の印象は1枚の静止画ほどしか残っていない。

台所まで歩き、水が入ったボトルを手にとった。どうせ明日起きたらまた使うからと、マグカップではなくプロテインシェーカーを選んだ。
大した乾きではなかったので、大きなシェーカーに3分の1ほど水を注いだ。そして虚空に右手を掲げ、一人で乾杯をした。それは、僕がただの水を祝えることに気付くために必要な、とても大切な乾杯だった。

水を一口飲み、いい味だと思った。もう一口、今度はグイッと大きく行った。口の中に持て余された水の存在を感じると共に、右手に持ったシェーカーがやけに軽くなった。飲みすぎたかもしれない。あと一口しかない。もう少し味わえばよかった。

 

それでも、注ぎ直すことはしなかった。代わりに、最後の一口を飲む前に大きく時間を取って、それが何か大切なものの最後であるかのように意識を向けて飲んだ。

 

なんの変哲もない一連の出来事の中で、僕はとかく多様な感情を味わった。
欲を持ち、恥を覚え、策を立て、晩酌を祝い、快楽と、飽和と、後悔と、終焉を味わった。

 

これが僕の原体験の一つになるんだ、と感じた。そこには素材以上のマジックがあって、僕はそれで十分すぎるほどに満足した。水からこんなにも喜びが引き出されて良いのか、規制されないか心配になってしまうほどに。

ふと、この前会った人のことを思い出した。裕福な家庭に生まれ、才能に恵まれ、一流の大学と会社に進み、健全な精神と幸せな家庭を築いた人に、僕はなぜ魅力を感じられなかったのか。そこにはマジックがなかった。あるいは、「まだ」マジックが見つけられなかった。水のように彼を理解するには、まだ何重にも試行錯誤が必要だろう。
軍事大国が作った整然とした航空母艦よりも、E.T.が作った間に合せの自転車で想像力の空を飛びたい。そこには、それなしでは生涯を送りたくないと思わせるほど、心を惹きつける要素が存在する。

水がそれぐらいのなにかに思えたこの夜のことを、ずっと覚えておこう。何があったわけでもないけれど、そんな夜が僕を作ったのであり、僕はそれから何か驚くようなものを作れると思う。

幸福の定量化:人生、仕事、コミュニティ

知人が「恋愛における好みのパートナー」について、以下の2点を挙げた。

  • 自分が好きになれる程度に見た目が整っていること
  • その他、自分が気にかける多数の変数(一緒にいて落ち着く、話が合う、前向きである、共通の友人が多い etc)の総合点が高いこと

 

この「好み」の形式化が興味深いのは、一点目と二点目の性質がまるで異なることだ。

 

1点目は完全なイチゼロの判断であり、その知人にとって構わない程度に整った姿であれば、群を抜いた体型や容姿であることは、さほど知人の選好に貢献しない。言い換えれば、基準値を超えたあとは、価値の逓減が激しい。シグモイド関数のような形で価値が増えると考えられる。

 

一方で、2点目はほぼ線形な価値の増加である。落ち着くような口調、癖、声、考え方など、様々なものxがあればあるほど知人の好みにはより当てはまる。y=xの直線のような形で価値yが増えると考えられる。

 

私は、この考え方の先に、かなり多くの人に当てはまる「幸福」の定量化があるように感じた。それは以下のような定式化である。

 

  • 必須条件(カットオフ):これを超えていなければ、他に多くの素敵なものに溢れていたとしても、幸せだと感じられないような条件。逆に言えば、これさえ満たされていれば、他の要件がさほど良くなくても、幸せだと満足できるような条件。
  • 希望条件(バリュアブル):必須条件が全て満たされている状態において、あればあるほど幸せが増すような条件。

  

個々人が幸せになりたいのであれば、まずはその人にとっての「必須条件(カットオフ)」の一覧は何なのか(What do you want out of your life?)、正確に理解するのが近道であるように思う。例えば自分の人生を考えてみたときに、以下のようなカットオフが思い浮かぶ。

 

  • 睡眠を削らなくてすむぐらいのペースで生活していること:食事と運動は、自分にとっては希望条件の方に入る。友人は食事、あるいは運動が必須条件の人が多い。また衝撃的だったのだが、睡眠が必須条件に入らない友人も居る。睡眠不足で自分が幸せを感じられることはまずない。なので旅行中も気にせず睡眠を取るので、睡眠時間を削ってでも回りたい友人とは対立をする。
  • 一週間に6−8時間ほど、何もせずに好きに過ごせる時間があること:自分は、常にやることがあると嬉しいタイプの人間ではない。むしろ隙だらけの毎日の中で、何十時間か集中して打ち込む活動があることを喜ぶタイプの人間である。激務も嬉しくないし、人間の体力の限界を価値生産の速度の限界とするようなプロセスは、根本的に非効率的である、少なくとも自分はその中で一生を過ごしたくはない(自分はそんな人生に納得はできない)、と思うタイプの人間だ。
  • 日常的に話す相手がいること:これは意外だったのだが、二十年強生きてきて、どうもそうらしい。同居人がいると明らかに毎日のパフォーマンスや落ち着きが上がる。同居人は家族でも、恋人でも、ルームメイトでも、何なら猫や犬でもいいが、比較的アクティブで、よく喋り、自分とは考え方が多少違った人のほうが良い。
  • 仕事で、何らかのスキルを獲得して成長していると感じられること:仕事において成長を求める人は全員ではない、ということを知ったのは驚きだった。一部の人たちにとって仕事はあくまで糧を得る手段であり、成長自体を目的にする人は部分集合でしかない。だが自分は恐らく、成長できないのであれば仕事をしたくないと思うタイプの人間であるように思う。仕事を生計の手段というよりは訓練として見ている面が強く、これだけ時間を吸い取られて活動するならばそのリターンとして個人の殻を打ち破ることが必須のはずだ、という前提のようなものがある。

 

みなさんの必須条件はどのようなものだろうか。自分が今まで見てきた人たちだと、

  • 自分が主導権を取れる(旅行、イベント、経営、人間関係)
  • 裏表なく正直に話せる(外交的に関わる必要がない)
  • 創作のエネルギーを日々摂取できる(映画や小説を毎日のように摂取する)

などがあった。

 

仕事が必須条件に入っている人と、希望条件に入っている人とではまるで幸福の基準が異なる。だがこれまで、コミュニティ(コミュニティにおける各自の役割)が必須条件に入っていない人は見たことがない…気がする。

 

 

 

分子より幸せな人生を歩むこと

 

「人間は人間同士、それこそ君のいう「人間分子の関係、あみ目の法則」で、びっしりとつながり、おたがいに切っても切れない関係をもっていながら、しかも大部分がおたがいにあかの他人だということだ。そして、このあみの目の中で得な位置にいる人と、損な位置にいる人との区別があるということだ。 これは気がついて考えてみると、たしかにへんなことにちがいない。へんなことにちがいないけれど、コペル君、これが争えない今日の真実なのだよ。君が「人間分子」といったように、人間と人間との関係の中には、まだ物質のつながりのような関係が残っていて、ほんとうにすみずみまでは、人間らしいあいだがらになっていないのだ。 お金をめぐっての争い、商売の争いは一日も絶えないし、国と国のあいだでさえ、利害が衝突すれば武力によって争う。──こういうことがまだなくなっていないのだ。「それはまちがっている。」と、君はいうにちがいない。そうだ、たしかにまちがっている。だが、それならば、ほんとうに人間らしい関係とは、どんな関係だろう。コペル君、ひとつよく考えてみたまえ」

吉野源三郎君たちはどう生きるか』より)

 

70億人を救いたいと本気で思っていた。

 

叶わぬ夢だと気がついて諦めるまで、20年と数年かかった。
人生の4分の1かそれ以上は、もう書かれてしまっていた。

 

キャリアの岐路において最重要の論点の1つであり、道を選んでからも、ずっとそのことを考え続け、少しずつ心は折れていった。一日一日の過ごし方は雑になり、生き急ぎ、日常の機微を楽しめない日々が続いた。

 

「こんなちっぽけな一つに拘泥していたら、70億なんていつの話になる?」という態度だ。

 

そんなある日、「数はあなたにとって本当に重要なマターなのか」と知人に問われた。

 

『サピエンス全史』がこれに続いた。農耕革命によって人類は、数は増えたものの不幸になったらしい。狩猟採集時代に比べて栄養素の多様性が狭まり、飢饉などによって全滅する危険性が増えたと。70億人をアプリだの何だの、何らかの均一な解決策で一様に救ったとして、それは農耕革命など、他の支配的な不幸を上回るほどの救いなのか?多様性のない救いで、人々は救われるのか?

 

救えるかどうか以上に「どのように救えるのか」は重要だ。
探索は2年ほど続いた。良い救い方は見つからなかった。

 

 

 

そのうちに、身の回りの大切な人たちが苦しんでいることに、気づくようになった。

 

 

 

何かを意識的にしたというよりも、深く呼吸をしてあたりを見回した。
それは、かつて「ちっぽけな一つ」として見過ごしていた、
大切な人たちが苦しんでいる、あまりにも重要な光景だった。

 

70億人の中で見たら比較的恵まれた人たちですら、幸せではないことがある。

 

取り返しの付かない不幸がある。亡くなった人は生き返らない。病気のほとんどは治療法がない。不運は急に生き物の命を奪ったり、不可逆なトラウマの記憶を負わせたりする。

 

人類はカロリー基準で見れば飢餓を克服したらしい。単一の栄養価における達成が文明の根源的な目的である「長期的に健康的な生活」を保証しないように、地位や金銭といった乾いた達成も、当人の「彩り豊かな幸せ」を保証しない。たしかに地位や金銭は、当座の生存を克服した。だが多様な幸せとその発見に満ちた生活を送れる人々で構成される社会こそ、先進と呼ぶにふさわしいのではないか。足を緩め、路傍に咲く花を眺める喜びはあるか。落ち葉を踏んで、一度きりの音の響きに心を向ける隙間はあるか。現状と目的を最短で結んだ直線の上に位置しない、言葉で形容することも難しい人生の体験を、受け止め、咀嚼し、打ち返す用意はあるか。単線的で効率的な社会は確かにその存在意義はあるだろう。しかしそれは私達の全てではない。自分のボイスを捨ててはならない

 

逆説的に、世界的に使われるプロダクトの無視できないほど多くが、小さく始めるらしい。
20億人以上が使うSNSアプリは当初、一つの大学の大学生を繋げる目的で作られた。
いま何でも売っているAmazonは、最初は本だけを売っていた。
イーベイはコレクター市場で成功を収めて拡大した。

 

高い地位を占める人たちでもなく、山ほどのお金を持つ人たちでもなく、
世界の片隅に暮らす極々普通の人たちが謳歌できる、
スケーラブルで多様な幸せとはどのようなものだろうか。

 

明日不治の病を告知されてもその芯が揺るがず、
消すことのできないトラウマを抱えていても享受でき、
目的すら運に翻弄され達成できなくとも変わることのない、
フォルトトレラントな救いとはどのようなものだろうか。

 

自分で考えて行動することを好み、
各自の宿題を解くことを願った恩師は、冒頭の引用を好いた。

いま自分は、その引用文に立ち返ろう。
この記事は、現段階での自分の考えの記録である。

 

自分にとって、周りの人と「ほんとうに人間らしい関係」を築くことは、
かつてJFKNASAの掃除員が「人類を月に送る手伝いをしている」と答えたのと、
同様のことに思える。

 

それは、社会の構成員が、「各自の認識と行動」という投票によって、
自分たちを分子で終わらせたいのか、それ以上の「共通の信念を持った何か」にしたいのか選ぶということだ。

 

私達は、丸めた紙を廃棄するようには、死んだその亡骸をゴミ箱に捨てられたくはない。
同様に私達は、1度しかないとされるこの人生が、分子より不幸なものであっていいとは全く思わない。私達の知性と思考力は、それに抗うためにある。

 

不治も、不可逆も、持たざることも、全て引き受けて、

それでも「あみ目」として、分子より幸せな人生を歩むこと。

 

進路を今、そこへ向ける。

『喧嘩稼業』感想:「稼業的」な、あるいは100%全力の問題解決に関して

マンガ『喧嘩』シリーズは、「稼業的」な、つまり、
100%全力による問題解決について考えさせられる作品だ。

 

同作は、問題解決における戦略性と網羅性について考えさせる。戦略性(effectiveness of game plan)とは、一つの解法が他の解法よりも1000倍効率的でありえること("Amazon's Business Is Better Than Baseball, You Can Score 1,000 Runs With One Swing")、網羅性(comprehensiveness)とは例外や失敗をなくすための周到な実行というぐらいの意味である。どちらも私の個人的な分類である。何を言っているのか伝えるために、記事の末尾に付録資料としてまとめたので興味があれば眺めてみてほしい。

 

同シリーズは、「最強の格闘技は何か?」という問いのもとに開催された、16人の強豪たちによる異種格闘技トーナメント戦と、そこに至る人間ドラマを描いた作品である。

 

その問いだけなら格闘マンガではありがちだ。

しかし『喧嘩』シリーズにおいて特異なのは、その問いにおける前提である。

 

最強の格闘技は何か!?

多種ある格闘技が

ルール無しで戦った時…

スポーツではなく…

目突き 金的ありの

「喧嘩」で戦った時

最強の格闘技は何か?

(『喧嘩稼業』1巻の冒頭より引用)

 

トーナメントの主催者による上記の問いかけ自体がすでに「何でもあり感」を暗示しているが、登場人物が作中で実際に行うあの手この手の策略は、一般人がこの問いかけを見た時に想像する「何でもあり」から更に数段階進んでいる。

 

例えば、食事に下剤を混入する。偽の必殺技を見せる。戦闘でアバラが折れている相手を襲撃し、格闘家として再起不能にさせる。反則条件を誤って伝え、負けを誘発する。対戦相手の参加者の兄弟仲が悪いと知れば、トーナメント外での兄弟喧嘩を計画し不戦勝を狙う。相手が五体満足で勝たなければならないと知れば、刀に塗った毒の存在を告げるなど、スポーツマンシップが存在しない無法な世界が描かれる。

 

このマンガの多くの登場人物は「喧嘩が強い」(何をしてもいいから勝ったと宣言される側になる)ことにプライドを持っており、それは言ってみれば正確に条件を揃えたときのベンチプレスの挙上重量を競っているわけではない。そもそも主人公を含む多くの出場者は復讐などのためにトーナメントに出場している特定の選手と戦えればそれで満足なので、スポーツ的な意味で最強を証明することにはさほど興味がない。

 

『喧嘩稼業』には、以下の様な批判が考えられるだろう。 実際には喧嘩をしない漫画家という職業人が書き上げた作品であり、そこで語られる戦術が実際に活きることはない(作中で使われるいくつかの技は現実には通用しないそうだ)。読者の予想を裏切る展開が好まれており、地味な勝ちパターンではない、格闘マンガの常識を覆すような新たな攻防による勝利が強調されがちだ。その意味で同作は現実の戦闘を描いたものではない。

 

普段格闘マンガを読まないし喧嘩もしない私にとっては、実際の戦闘で使えるかはどうでもよい。私が興味を惹かれたのは、同作の中で一貫して描かれる、主人公たちの折れないマインドセットと、批判的思考能力、すなわち「実戦」で使えそうな要素である。

 

 

倒れないとか
倒しても倒しても立ってくるとか
不死身だとか
俺はそういう相手と戦う事をもっとも得意としている

(喧嘩稼業3巻より、佐藤十兵衛の発言)

 

ーーで?
死線を越える戦いをしたら何を得てどう強くなれるんだ?
それは死線を越えて戦わなければ得る事の出来ない代用の利かないものなのか?

見えないし確認もできないものを信じてどうする
最強ボクサーという看板を持ったヤツを
相手にしようとしているのに
お前は看板にビビるのか?

死線を越えて強くなる酷く曖昧な強さを求めるより
富田流は具体的な強さを追求する

(喧嘩稼業9巻より、入江文学の発言)

 

これでほぼ100%倒せるが
注意はほぼだって事だ 
実際に俺は
自ら耳を引きちぎって

防いだヤツを知っている

(喧嘩稼業3巻より、入江文学の発言)

 

 対戦前、あるいは対戦中の十兵衛と文学が行う想定の深さは尋常ではない。格上の相手と戦う際に、初手を25種類想定することで経験の差を埋める。対戦相手の戦闘における癖だけでなく、家族構成や感情のトリガーなども含めて分析し、心理戦に持ち込む。相手の特殊な必殺技を捕捉したら、諦めるのではなく、その回避策をすぐに3−4通り検討する。100%必殺に思われる技についても、「仮に相手が耳を捨てたらどうなるか」などといったレアなケースまで想定して、本当の100%に近づける。

 

このような終わりのない検討や読みの連鎖こそが、『喧嘩』シリーズの面白みに繋がっている。どのような戦闘においても、十兵衛は様々な事前準備と、試合中に手に入った新情報から柔軟に対応していく。勝ち目がないと思われた相手に対して、少しずつ突破口が見つかり、最終的に勝利するその流れには何とも言い難い魅力がある。休載が続いてもファンがなくならないのも納得だ。

今後は、このような問題解決を「稼業的」な問題解決と呼ぶことにしよう。「最強の格闘技とは何か?」のような外部の権威から与えられた抽象的な枠組みに拘泥せず、「あいつと戦いたい」のような一番達成したい目的に関して有効な策を洗いざらい考え尽くし、リアルタイムの変化に対応しながら思考を進めていくスタイルの態度である。その言葉には、同作における真剣な命のやりとりにも近い、妥協のない姿勢といったニュアンスが含まれている。

 

付録資料

問題解決に対する私の枠組みは、主に『問題解決大全』や『ゼロトゥワン』で書かれた枠組み、またアナリストやプロジェクトマネージャーの話した実務哲学に支えられている。

 

喧嘩商売』とその続編『喧嘩稼業』というマンガがその参考資料の中に加わった。

そのことによる変化はかなり大きかったので、以下に備忘のため全体像を書きつける。

 

現実での多くの問題解決において、私は8つの性質が重要だと思っている。

 

問題の存在に関わるもの

  • 連鎖性(event chainability)問題は解くと消えるのではなく変わる。また、他の問題の性質も変える。
  • 虚構性(fictionality):問題ではないとする信念が確立すると問題は消える。
  • 適時性(timeliness):解ける瞬間は限定されているし、いつ問題が来るかは分からない。一度逃すともう解けないものもある。
  • べき乗の経験則(exponential law):ある問題は、他のあらゆる類似問題の合計よりも解く価値が高く、コストは合計よりも少ない。

問題の解決に関わるもの

  • 戦略性(effectiveness of game plan):解き方により効率は千倍ほども異なる。
  • 不確実性(uncertainty):用意の多寡に限らず、解決を阻む障害は途中で姿を表す。
  • 網羅性(consistency):解けたかは時に、例外や失敗を少なく実行できたかで決まる。
  • 局所性(do one thing and do it well):一つに集中した方が薄く広くよりも報われる。

 

これらの性質が重要なのは、互いにトレードオフの関係になっていたり、あるいは複数合わさると妥当な行動指針を導き出したり、素朴な対応の欠陥を浮かび上がらせたりして、より優れた問題解決を助けるからである。

トレードオフの関係

  • 「適時性」と「戦略性」はトレードオフになっている。すぐに解かないと手遅れになりうる一方で、時間をかけて考えたら、あるいは有識者に相談したら効率的に解く方法が見つかるかもしれない。
  • 「べき乗の経験則」と「網羅性」はトレードオフになっている。いくつかの主要な問題を片付ければとりあえず他のことに移っていい、なぜなら次の問題も指数的に見たら圧倒的に重要だからという解き方がある一方で、ある指標で見た時に99.9%の成功まで達成していなければ再発の危険性を含むケースもある。
  • etc

妥当な行動指針

  • 「連鎖性」と「適時性」と「べき乗の経験則」を踏まえると、「いつでも新しい問題が解けるぐらいの忙しさで過ごす」ことが望ましいと推察される。なぜなら、ある問題を解いたことで生じた新しい問題が、それまでに認識したどの問題よりも遥かに重要である上に、すぐに解き始めないと間に合わないという状況が起き得るからだ。
  • 「虚構性」と「連鎖性」と「戦略性」を踏まえると、「問題Xが解決したと納得できたら、他のどの問題の性質が変わって、べき乗則のランキングにおいてどんな変動が起きるだろうか?それはどれほどの効率を持っているだろうか?」と推論することが効率的でありえる。だから、問題が一つ減った未来を予想して選択するのは有効だと予想される。ちなみに、このような先読みの仕方をlevel-k reasoningと呼ぶらしい。

 

素朴な対応の欠陥

  • 「局所性」は非直感的である。なぜかといえば、素朴には、いくつも試してその中でうまく行ったやつを、という分散投資の考え方を採用したくなるからだ。しかし「連鎖性」が示唆するように複数の問題は相互に絡み合っており、一番最悪なケースでは負のフィードバックループを形成している。そのような悪循環が生じているときには、環の一点に改善を起こして循環自体を崩すのが最も有効だ。そしてそのような循環と問題が「べき乗の経験則」がなぜ観測されるかを正当化する。
  • 素朴には、目の前に問題があるとき、人は行動によって解きたくなる。だが現実には、認知でも解けることがあるし、また積極的にそうすべきだ。どうしても嫌いな何かがあるとき、『問題解決大全』で言う「100年ルール」(n年後にその問題がまだ問題であるだろうか、という問題をnを100から始めて時間スパンを見極める解決法)のような認知の変更のほうが効率面において戦略性に適うことがある。上司が嫌いなのはどうしでだろうか?退屈なミーティングは本当に、社内政治のコストを払ってでも撲滅すべきだろうか?