蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

成功体験をアンラーンして

結構、頭がおかしい選択だったかもしれない。

 

でも「これでいこう」と思えたのだ。自分なりの調査もした。現代的で楽しかった。確定していない情報が多いから、間違えた可能性はある。実はやったほうがよかったのかもしれない。大変なことをしてしまったか?

異国で一人寝込んでいたときのことを思い出す。あの時も自分で決めた。単純な数値で見たらバカげた選択に映ったと思う。でも自分の信念を貫くのが何よりも重要な局面はあって、それが今回だったのだと思う。

 

適当にこなして忘れてしまえば、きっと通ることはできるのだろう。昔はそうやっていたと思う。そうやって乗り越えていくしかなかった。でも年を取るにつれバランスは変わっていって、今はフィットが重要なのだ。自分が「覚えてしまった」過去の成功体験をアンラーンして、全く新しい何かに向かうのだ。全く違う何かに。そういう局面では過去の成功ではなく、現在の情報をもとに判断したほうが効果的だと信じているのだ。前例がないから難しい。間違うことも多いだろう。誰も信じはしないだろう。それでも僕は信じている。

 

見えている世界が、人によってまるで異なる時代になった。同じ業界で働いていても、ほんのいくつかの体験の違いで、まったく違う未来を見ている。

 

今日僕は、きっと本当の意味での投資をした。どちらかというと、VCに近い形だったかもしれない。これからの行動でその価値が変わっていくはずなのだ。

 

 

僕の部屋の窓からは

 

僕の部屋の窓からは、誰もいないオフィスビルが見える。

 

どのフロアも配線がむき出しで、間仕切りのパネルや工具が雑然と積み上げられている。初めてこのがらんどうのフロアを見たとき、変化の激しい街だから、そのうち会社が入居するだろうと思って、たまに眺めていた。

 

予想は裏切られた。2年ものあいだ、オフィスビルは何も変わらなかった。パネルは未だに積み上げられたままで、昼間でも人の姿を見ない。なんてこった。進展を示すしるしは見当たらず、ほとんど何も変わっていない。これだけ人がスペースを争う地域において、こんなにも手のつけられていない大きな場所が残っていることはとても不思議に思えた。コロナの影響なのかもしれないし、傍観者には分からないもっと深い理由があるのかもしれない。一見すると不可解な流れが世界に存在することを、この窓は教えているように思えた。

 

もう少し慎重に考えるべきだったのかもしれない。
そう感じていた時期もあった。自分を責める慣れた道を行きそうになった日もあった。

 

一方で、事実と感覚を若い時よりもうまく組み合わせられるようになったこともあり、そうしない日も増えた。恐怖や多忙が選択肢を覆い隠していた時期からしたら想像も付かないが、最善のタイミングだったのかもしれない、と思うことが増えた。

 

僕はいつも他の人より気づくことが遅い。
でも、これからは早くなるときもあるかもしれない。

 

「良い機会に繋がったということは、つまりそれはgiftなんですよ」、と友人が言っていた。そうなのだろう。自分にとって認識の変化は、今後の鍵になるのだ。

 

世間一般の経済合理性の圧力だけでは、オフィスビルは変わらなかった。大きな価値を生んだであろうビルが2年遊ばされていたことが、本当に無駄だったのかは、今はまだ誰にも分からない。

 

僕の部屋の窓からは、誰もいないオフィスビルが見えた。

ソファに座る

暗がりの中、誰も居ない居間のソファに座って、自分の感覚に意識を向ける。ふとソファの上に置かれたブランケットが左膝に当たることに気づき、今はいらないと遠くに退かす。こういうことができるようになった。素足の裏に毛の長い絨毯が触れて気になったので、端から3重に折って足に触れないようにする。人生でこんなことをしたことはないし、絨毯の本来の使い方からすれば誤りだろう。でも今日はこれが正しい。そうして素足の裏に、コーティングされたフローリング床の感触を感じた。

肌に感じるのは床とソファだけしかない。電子機器も携帯していなくて、お酒やタバコの助けもない。友達からの遊びの誘いが届いているかも知らないし、何かスペシャルな予定が待っているわけでもない。でも長年悩んでいたことに少し改善が見えたせいか、不思議なくらい満ち足りていて、こうやってひとりでも満足できることを僕は一つの希望として目指していたのかも知れない、とふと思う。

なんのことはない水が美味しいとき、自分が良い状態にいることに気づける(そのこと自体は3年前にも書いた)。社会の基準から切り離されて、自分の感覚だけが優位になる。資本主義の中で日々ばたばた働いて染まると忘れてしまうが、僕にはきっと元来、根本のところにそういう部分があるのだろう。ただの冷たい水を飲んで、なんてことはないソファに座って、どのタイムラインもチェックしなくても、ちょっと夜空が見えて、胸のあたりの体温や呼吸の上下が心地よいと感じられる、過去に出会ってきた人たちとの色んな場面を思い出す、そんな時間を求めているところが。そりゃ確かに競争は向いていないだろう。それはもう充分に分かった。でも何か他には向いているかもしれない。風変わりな人生と不思議な縁を通して世界の広さに具体的に触れていく中で、僕はそういう希望を持つようになった。

ドラマの登場人物たちが、どうしてソファに座っているだけであれだけ安楽そうなのか分からなかったけれど、根本的に各人が満ち足りるために必要なものへの動きは、他の人の預かり知るところではないのだ。それをシェアしてくれて感じられる喜びや悲しみの共有もあれば、一人で感じる味わいの深さや言葉にならない余韻もあるのだろう。

とてつもなく巨きな岩が、ほんの少しだけ動くこと

人は大抵変わらないと思う。

 

だけど、時に運命のいたずらで、それが変わってしまうほどのトラウマを体験することもある。それは大地震だったり、テロだったり、戦争だったり、個人を変える大きな力を持っていて、人を変えてしまう。そして人に話せない。話しても伝わらない。何度話しても、何年かけてどれほど言葉を選んでもダメで、その媒体に移らないという意味で言葉にできない。本人の性格によっては誰にでも話せる形にパッケージして言及する人もいるけれど、本人が感じた重要な部分は伝達できない。

 

そういう経験をする人たちが世の中にはいる。昨日まで青色だった空が今日から赤になってしまったと感じるぐらい、物理法則が変わったように感じられるほどの経験をした人たちが。世界観が維持できなくなり、不可逆に失われ、新しい世界で過ごすことを余儀なくされるという意味で一度死んだ人たちが。

 

今思えば自分は、あのときにそれぐらいのショックを受けたのだと思う。その間に何年の歳月が経ってもなお、振り返ったときに真っ先に参照点となるような出来事。

 

数年に一回、その物事について解釈が進むことがある。あの出来事は何を自分にもたらしたのか。何が変わったのか。何が残っているのか。そこからどれくらい遠くまで来て、状況も時代も変わって、その中でその出来事がどのような磁場をもたらしていて、その磁場がどう変化してきているのか。その進みは人には本当に微かなものだと思えるだろうが、どうしようもなく腑に落ちて、しばらく動けなかったりする。とてつもなく巨きな岩が、ほんの少しだけ動くことが、長い目で見れば、いろんな変化につながったりもする。

 

誰かが昇進した横で自分はいつもどおりの仕事をしていても、誰かがいいパートナーを見つけてうまくやっている横で自分が孤独でも、誰かが易々と大金を得る横で自分はつつましく過ごしていても、得られる幸せや安寧はある。パスタを作るんだ。小さくてもフルな状態は有りうる。経済や健康に関してある一定ラインを超えると、あとは自分の想像力と世界観によると思う。巨きな岩はそこに接しているみたいで、特別な意義がある。

 

窓を開けて、外の汚れた空気を吸い込むと、いつもより少し澄んでいる気がした。

それは最後ではなくて、全ての瞬間だから


日々を過ごすなかで、楽しさは不可欠だと思うようになった。

楽しさは単なるエンタメや娯楽に留まらず、様々な活動につけるある種の胡椒や醤油みたいなもので、いろいろなものに合う。活動によっては楽しさというか「ツラくはない」ぐらいになる。ゲーミフィケーションはその1つに過ぎなくて、楽しさを広げていく試みは、もっと幅広くて奥深い。

 

すべての楽しさを捨ててまで他を最大化するルートはある。それはgrinding、すなわち過酷なルートであるので、一般にGルートと言われる。Gルートの主張は、「誰もが完全な幸福を手に入れたn世代目」をできるだけ早く実現するために、それまでの世代を犠牲にするべきだというものだ。確かに楽しさが消えるほどに突き詰めれば、単純な指標が改善することもある。目的のためには楽しいことばかりやってはいられないのも真だろう。それでもGルートの主張は合理的ではない。時間軸を千年単位で眺めて、仮に『ホモ・デウス』で説かれる非死や神性が達成されたと仮定しても、完全な何かにはまだ程遠い。n世代目はおそらく訪れないため、Gルートのエンディングは全世代の不利益に終わる可能性が高い。そしてGルートのエンディングを興味本位で見ることはできない。

 

もうひとつ別の道もある。悲惨なミライに絶望し、無力感と倦怠感の中で過ごし、たまに気晴らしもするけれど、大枠としてはただ崩壊を待ち続けるというものだ。このルートは特に何もしなければエンディングまでたどり着けるので、No actionルート、略してNルートと呼ばれる。GルートもNルートも楽しさからは縁遠い。

 

もう一つだけ別のルートがある。
それはPeopleの頭文字を取ってPルート、または「人々の辿る道」と呼ばれる。

 

Pルートは、自由意志を仮定された個人が、各自の判断でいろいろな選択をしていくというものだ。自分だけを優先して行動することもあれば、将来世代の利益を考えることもある。

 

PルートはGルートと違って、特定の「終わり」の瞬間で目標を定義しない。ゲームに勝つことではなくて、ゲームを続けることが目標だ。Pルートにとって重要なのは、最後ではなくて過程、もっと言えば全ての瞬間だ。それぞれの世代が健全なかたちで頭を悩まして、満足感に満ちた生涯を過ごすことにPルートの意義がある。Gルートを望む理想主義者が心に描く「完全な分配」ができない中で、この分配は一つの最適を達成している。

 

Pルートは各個人の同質性を求めない。尊厳は各個体が持つ定数として割り振られ、保全される。ただし、尊厳は相互に対立し合うときは毀損されるし、対立がなくても孤立して自滅することもある。そのようなかたちでPルートは痛みに溢れており、ゲームバランスはあちらこちらで壊れている。投げ出したくなるような展開が待っていることもある。自分の世界観が覆ってしまうような悲劇も、ひょっとしたら起きる。

 

PルートはGルートやNルートより圧倒的に手間が多い。ひとつひとつの行動をいちいち考える必要があって、頭が痛くなる。不満足な結果に終わることもしょっちゅうだ。Pルートで遭遇する何についても解ける保証はない。戦争の時代に生まれた世代は、平時の意味での幸せに出会えないかもしれない。

 

それでも、Pルートを愛する人たちがいる。
世界のすべてが有効に含まれているからだ。

 

何かを変えようと行動を選べる。
ツイてないことを鉄板ネタにする。
大切なものを失ったら、残っているものに感謝する。
感謝すら出来ないほど落ち込んだときは、たくさん泣く。
そうして8年ぐらい経ったとき、自分がまだ歩けることにふと気づく。

 

Pルートは快適でも単純でもないが、私達を見捨てない。
それは最後ではなくて、全ての瞬間だから。

 

人間の興味深い点の一つは、前に誰かが言っていたように、
どんな悲劇や些事にすら、誰かが意味を見出して進んでいく点だと思う。

 

Pルートは人間ドラマに溢れていて、感情を強く揺さぶられる。
いつも転んでいた子が、歩けるようになる。
まったく天文学的な確率で、運命の出会いが起きる!
予想もしていなかった場所で、驚くような大発見をする。
Pルートはやみつきになる。純粋な感動に出会えるからだ。
個性豊かなエピソードに溢れており、話が尽きることがない。
それは最大効率でないかもしれないが、真の意味で豊かである。

 

自分はそんなPルートを歩んでいくことにした。
現実がどれだけ取り返しの付かない形で壊れていようと、
フィル・ナイトがゴングの鳴る一瞬に見出したのと同じように、
人が知るべきあらゆることがそこに詰まっていると思ったのだ。

 

私は走ることが好きだが、馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたものもないだろう。ハードだし、苦痛やリスクを伴う。見返りは少ないし、何も保障されない。楕円形のトラックや誰もいない道路を走ったりしても、目的地は存在しない。少なくともその努力にきちんと報いるものはない。走る行為そのものがゴールであり、ゴールラインなどない。それを決めるのは自分自身だ。走る行為から得られる喜びや見返りは、すべて自分の中に見出さなければならない。すべては自分の中でそれらをどう形作り、どう自らに納得させるか、なのだ。

 

For that matter, few ideas are as crazy as my favorite thing, running. It's hard. It's painful. It's risky. The rewards are few and far from guaranteed. When you run around an oval track, or down an empty road, you have no real destination. At least, none that can fully justify the effort. The act itself becomes the destination. It's not just that there's no finish line; it's that you define the finish line. Whatever pleasures or gains you derive from the act of running, you must find them within. It's all in how you frame it, how you sell it to yourself.

『SHOE DOG』(フィル・ナイト著)

 

風とスプートニクが話していた。

 

完璧な文章は存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。

 

 

--- ☆ ---

 

Pルートを辿ることは自分にとってどういうことなのかを最後に語る。

 

僕は本を読むとき、傍線を引くのが好きだ。Kindleアプリならハイライトをよく使う。一方で「本に線を引くのは頭に残らないから意味がない」という意見も耳にする。読みっぱなしにしないで、能動的に情報を使ったほうが定着しやすいという話だ。なるほど確かに、情報を統合して活用する上では、線を引くよりも優れたやり方があるのだろう。

 

僕はその意見に深く納得した。

 

そう納得した上で僕は、今日も変わらずに線を引く。これまでも引いてきたし、これからも引いていくだろう。それは要約して糧にするためではない。その傍線はむしろ足跡に似ている。本を読んだ過去の自分がどこに心を動かされたのか、記録するために引いている。蛍光ペンの交差点というタイトルは、そのような願いのもとに付けられた。あの日あの時感じたことを書き付けておいて、どの道を曲がって来たのか思い出せるように。人はどんなに大切なことでも、書いておかなければ忘れてしまうから。どの交差点での決断が僕を作ったのか、いつまでも忘れないように。最大効率の人たちには愚かで実りのない行動に見えるだろう。でもPルートでは全ての瞬間に平等な輝きがあり、各個人は自己判断でそれを選ぶ。僕の基準は驚きと願いだった。僕はそれらの輝きを、これからも蛍光ペンの中に残そうと思う。

 

何度も何度も9年も、思い浮かぶことを書くうちに、書いているときの僕は、とても穏やかな場所に居ることが分かってきた。書きたいことが何なのかを掴もうと没頭して、どこか別の空間に漂っている。その場所はとても不思議で、世界のどこに居ても訪れることができる。生まれ育った家からも、遠く離れた学校からも、たまたまそのとき住んでいたアパートからも、まるで世界に地域差なんてないと主張しているみたいに、平等に立ち入ることができる。その場所は夜のようでもあり、夢のようでもある。僕はその不思議な場所を、時間をかけてもう少し調べてみようと思う。

 

次の目的地が決まり、21世紀版の楽しさを探していくと決めた。
僕自身が驚くほど楽しみ、そして他の人も楽しめる何かを作るために。

 

《 2022年1月、Pルートのプレイヤーの手記より 》

 

自分のボイスを捨ててはならない

資本主義の中で正気を保つことは難しい。
自分が発している声が自分のものなのか、
あるいは資本主義にインストールされたものなのか、
分からなくなることがある。

 

資本主義の核に近づくほどに、いびつな矯正を強いられる。
痛みが薄れていくにつれ、それが唯一の正しい位置なのだと思いこむ。
痛みを感じることは誤りであり、効率的ではないのだと。

 

でも本当は違う。


私たちはそれぞれ違う子ども時代を過ごした。携帯のアプリのような同一のコピーではなく、バラバラの子ども時代を。本人以外誰も興味を持たないような雑多な詳細に満ちたもので、一見そこにエンタメ的な価値はない。

 

それはコピーすることに価値がある類の情報ではない。更に重要なこととして、だからといって価値がないわけではない。それは単に交換や複製といった操作ではその価値を観測できない、生身の人間を構成する部品なのだ。心臓や脳といった臓器に近い。神経回路の中に私たちの記憶は刻みつけられている。その記憶は机の引き出しの中の傷のようなものだ。外からは見えないが確かに存在している。その傷は、表面的には矯正されたはずの人間に対して、本当は何も直っていないことを静かに主張している。


私たちはそれぞれ違う日々を過ごしている。たとえ同一の宿舎に住んでいたとしても、体験は個別のもので、感想は個人のものだ。私たちは引き出しの傷のことを普段あまり考えない。それは体力のいるプロセスで、長く取り組みすぎると矯正が崩れてしまう。それは資本主義、あの資源の飽くなき私有の活動において、単純に不利になることを意味する。

 

私はそれでも構わない。私が志向するのはより包括的で人間的な生活だ。誰も興味を持たない記憶も私を構成している。私は資本主義が好きだが、その資本主義が私に「その役に立たないゴミを捨てろ」と命令したとしても、私は従わないだろう。私たちは資本主義の奴隷ではないのだ。人間はボイスを捨ててはならない。自分のボイスを捨ててはならない。

水を飲む

深夜、水を飲みに台所へ向かった。

 

二階の寝室のドアを抜けて廊下に出ると、明かりが漏れていることに気がついた。
起きていることが廊下から分かるということだ。深夜一時に起きている不養生を恥じた。

リビングに続く階段を降りながら、一段ずつ数えてみた。いち、にい、さん…15ほど数えたところで階段は終わり、床になった。最後が15だったのか、16だったのか、はっきりしない。いつも使っているはずの階段なのに、ずいぶん長かった気もするし、その割には最中の印象は1枚の静止画ほどしか残っていない。

台所まで歩き、水が入ったボトルを手にとった。どうせ明日起きたらまた使うからと、マグカップではなくプロテインシェーカーを選んだ。
大した乾きではなかったので、大きなシェーカーに3分の1ほど水を注いだ。そして虚空に右手を掲げ、一人で乾杯をした。それは、僕がただの水を祝えることに気付くために必要な、とても大切な乾杯だった。

水を一口飲み、いい味だと思った。もう一口、今度はグイッと大きく行った。口の中に持て余された水の存在を感じると共に、右手に持ったシェーカーがやけに軽くなった。飲みすぎたかもしれない。あと一口しかない。もう少し味わえばよかった。

 

それでも、注ぎ直すことはしなかった。代わりに、最後の一口を飲む前に大きく時間を取って、それが何か大切なものの最後であるかのように意識を向けて飲んだ。

 

なんの変哲もない一連の出来事の中で、僕はとかく多様な感情を味わった。
欲を持ち、恥を覚え、策を立て、晩酌を祝い、快楽と、飽和と、後悔と、終焉を味わった。

 

これが僕の原体験の一つになるんだ、と感じた。そこには素材以上のマジックがあって、僕はそれで十分すぎるほどに満足した。水からこんなにも喜びが引き出されて良いのか、規制されないか心配になってしまうほどに。

ふと、この前会った人のことを思い出した。裕福な家庭に生まれ、才能に恵まれ、一流の大学と会社に進み、健全な精神と幸せな家庭を築いた人に、僕はなぜ魅力を感じられなかったのか。そこにはマジックがなかった。あるいは、「まだ」マジックが見つけられなかった。水のように彼を理解するには、まだ何重にも試行錯誤が必要だろう。
軍事大国が作った整然とした航空母艦よりも、E.T.が作った間に合せの自転車で空を飛びたい。そこには、それなしでは生涯を送りたくないと思わせるほど、心を惹きつける要素が存在する。

水がそれぐらいのなにかに思えたこの夜のことを、ずっと覚えておこう。何があったわけでもないけれど、そんな夜が僕を作ったのであり、僕はそれから何か驚くようなものを作れると思う。