蛍光ペンの交差点[別館]

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

使わない言葉を決める大切さ

実現させたい未来があるときに使うと害になる論法や表現法がある。そのうち最も耳にすることが多いのは、「Aがいいことは当たり前なのに、なぜそんな簡単なことも分からないんだ?」である。組体操がなぜ廃止されないのか、なぜ増税か、なぜ霞が関で働くのか、なぜワクチンを打たないのか、などが最近見る話題だと思われる。

 

この疑問文は、相手が依拠している思考の筋道(あるいは優先順位)に対する無知を正当化している。実際には、他の選択肢の利点を見逃している可能性や、選択肢Aの欠点を過小評価している可能性もある。

 

対策は多数考えられる。

  1. 「この人達を説得するには何を伝えればよいだろう?」:選択肢Aが正しいことは前提とした上で、相手にその正しさをどう気づかせるかをデザインする。
  2. 彼らが反対していることは放っておいた上で、選択肢Aを実行する。選択肢Aが無断で実行されたことに憤慨しうるケースでは悪手だが、一回試せば気に入るタイプのものでは有効である。
  3. 法律や権威、何らかのインセンティブなどで合意を取り付ける。ケースによっては単にゴネるだけで効くこともある。
  4. 彼らの手元では彼らが望んだ選択肢を実行させた上で、その影響範囲から自分を取り除く。こうすると被害を受けるのは彼らのみになるため、認知的不協和を起こして害を最小限に留めるか、あるいは選択肢Aに収斂する。
  5. 「彼らの選択肢のほうが実は正しいのではないだろうか?」:選択肢Aが正しいことを再点検するため、相手の言い分を聞く。

 

どの対策法を実行するにせよ、大事なことは、相手の意思決定の筋道が分からないとき、巷でよく見るからと言って前述の感情爆発文に落ち着くことは得策ではない、ということだ。異なる思考過程を辿る人々で構成されているのが社会であり、そこを理解する方針を放棄するのは厳しい。

 

よく見る理由は、それが解決に至らないからずっと残るからであり、実際の解決策はとても多岐で、出会う頻度が分散されているからだ。多数の人が使う言葉や表現の中で、何を使わないことに決めるかは、現実の展開にとても大きな影響を及ぼす。

運命に告げたさよなら

生きていれば人はいろいろなものにさよならを言うだろう。

 

子供のころに飼っていたペット、転校していった仲のいい友人、疎遠になった文通相手、ボロボロになったお気に入りの筆箱、長年通った習い事の先生、届かなかった部活動の勝利、お世話になった地域のおじいちゃん、片思いに終わった相手、学生時代を過ごした寮、そりのあわなかった友人、自分を苦しめた親知らず、自分を助けてくれた制度、毎日乗って通学した自転車、改修されて消える駅のホーム。

 

それぞれに鈍い痛みをもたらすわけではあるが、
運命にさよならを言うのは格別だった。

 

数十年ずっと自分を規定していたものを捨てる。何百人の予想を裏切るのか。そもそも自分に選ぶ権利などあるのか。自分を自分の手で殺したような後味の悪い体験。

 

若いころに耳にしたことばというのは、パレットに最初に乗せてしまった絵の具のようにいつまでも心に残って影響力を持ち続け、僕のそれは予備校講師が言っていた。「自分で決めたのだったら、その先が地獄だろうとなんだろうと、納得できるよ」。それから10年ほどが経って、僕はまだその言葉を忘れずにいる。

 

重大な決断をするとき、僕はふつう親密な友人や信頼できる恩師に相談する。だけれど今回は、自分で決めたいと思ったから誰にも相談しなかった。誰かが言っていた。自分を長い間偽っていると、いつのまにか自分の本当の声も分からなくなってしまうと。僕は別に気づいていない論点を指摘してほしいわけでもない。冷静な頭に整理してほしいわけでもない。背中を押してほしいわけでもない。僕はただ知りたかった。もし恐れがなかったら、僕はいま何をするだろう?そうやって何晩も考えた。

 

天秤にかけられたのは、要するに過去と未来である。過去には、夥しい数の糸や絆が張り巡らされている。麻糸や、鋼線で繋がれたものもある。不自由で、個人と呼べないような存在だ。一方で未来は、糸の数も姿も頼りない。誰が助けてくれるのかもはっきりせず、社会の塵となって消えてもおかしくはない。ただ一つ未来のいい点は、それが誰の決めたものでもない、僕のものだということだ。それは自律した決定主体としての個人であり、書き込むだけの余白を備えた自由な存在であるように見えた。

 

喪失感は半端ではない。正直、人生を生きる上での目標を失ったような感覚が続いていて、いまいちどうしたら良いのかが掴めない。いまはとりあえず幕間なのだと考えるようにしている。第一幕だか第二幕だかがこれで終わったのだ。ここで脚本家が変わり、大河ドラマから近未来サイバーSF作品になります、というわけだ。この先には何も書かれていない。それならば好きに生きて、意志が僕の今後をどう変えたのか、少しずつ立て直しながら眺めてみようと思う。Brexitが起きて、トランプ大統領が当選するような予想のつかない現代で、自分のこの自分でも想定外な決定が、どういう第二の運命をもたらすのかを。最後に、僕の好きな随筆の一節でも置いておこう。

 

 

わたしの第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。この点でわたしは、どこかの森のなかで道に迷った旅人にならった。旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一カ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。

...

そしてこれ以来わたしはこの格率によって、あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち、良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから、解放されたのである。

 

(ルネ・デカルト方法序説』、谷川多佳子訳)

 

 

 

 

「生存の質」の危機の中で、登場人物になる個人

東京大学は、未だに世界でも有数の研究機関であるとも言えるし、数十年前は考えられなかったぐらい世俗化して堕落した娯楽機関であるとも言える。2つの現象は同時に起こっており、「東京大学」という固有名詞一つでの評判分析はほぼ不可能である。東京大学に限らない。かつて社会の確固たる前提としてそびえていた組織が、いまでは文化祭のハリボテ背景のように見えてくることもある。設計に関し大した議論や狙いがあったわけではなく、ただ単にそこにあるだけで、なにかいいものが出てきたら壊されてしまってもおかしくはないのだ。

 

長期的な将来予測はいつも難しいが、今後ますます目につくことを一つ予想するなら、権威の崩壊だと思う。東芝、医学部、省庁、今まで外部者には堅固な、何事においても存在が前提とされていた組織体が影響力を限定的にしていく。崩壊という言葉があまりにも強すぎるのならば、以下の3つをその内容として説明してもよい。

  • 一貫性の欠如:組織や個人におけるブランディングが一筋縄には行かなくなり、必ず理念と相反する事例が見つかる(服飾ブランド。技術企業。入試問題)
  • 一流性の欠如:性能において世界一とされていたものが、分野外からの参戦により格下になる(将棋や囲碁ひいては科学的な数理最適問題。既存の一流企業や教育組織。米国と中国の関係)
  • 内外区分の欠如;生存の質の危機から、組織内外を問わず個人間での「遠くをつなげる」ネットワークの価値が高まる

 

一方で、権威なしでは生活基盤は保たないことも事実である。採用に1万人の応募があったとして、時間制約からどこか凄そうなコンテストの受賞歴を参考にせざるをえないことはあるだろう。組織の卒業生間の関わりから活動が進むこともある。家族との兼ね合いから安定した会社員生活を取らざるをえない家庭もあるだろう。

 

そのような世の中では多くの人は常に先を考えることを迫られる。それは生存の危機だからだ。

 

いやもっと突っ込んで理解すれば、それは生存の質の危機だからだ。

 

世界には生存の危機が毎日のように襲ってくる地域がいくつもある。今日の昼に食べるものを確保できるか毎日心配しなければいけないところや、銃撃がいつ起きても不思議ではないところというものがある。それらと比べたら、権威の崩壊による問題は、遙かに多くの前提が変わらないという意味で、安全地帯での問題にすぎない。余裕がある地域の人たちが考える課題、いかにすれば私たちはより公正で、あるいはより効率的で、あるいはより心に豊かさを持つことができて、あるいはより持続可能な生活を送ることができるか、という課題だと言える。存続は既に保障されていて、最適化が問題となる。それは多くの場合個人としての充実感のためであり、時には社会に対する希望のためでもある。

 

個人としての充実感のある生活を目指す場合、ある人は人とのつながりを大事にし、仮に会社が倒産しても社会資本をセーフティーネットとしてやり直していけるだろう。またある人は貴重な業務技術あるいは業務とは無関係な技術を磨きながら傭兵のようにどこでも働けることを目指すだろう。あるいはそのような常に維持や変化を迫られる世界にウンザリして、資本を蓄積して若くして束縛のない生活を選ぶ人もいるだろう。個人が語るストーリーはますます物語の様相を帯びる。あなたは生涯いくつの職業に就くだろうか?エンジニアから管理職になったあなたはアイデンティティをどう確保し続けられるだろうか?証券会社からWebサービスに転職したあなたは自分を何だと説明するか?売却をし富を得たあなたは、自分が社会のどこにも必須でなくなった感覚をどう位置づけるだろうか?あなたは、いくつものPoint of No Return(もう以前の状態には戻れなくなる時点)を経てストーリーがクライマックスを迎えたとき、どういう人でありたいだろうか?

 

この時代に最も必要なものは、良い物語(という名の統計モデルーー権威が崩壊するほどノイズが高い時代に、人の行動の分散を全て説明することはできない)である。多くの人の頭に残り、原動力と意志の力を与え、自己同一性と一貫性を保たせ、最適化が進むという意味で正しい北極星を指し示す良い物語である。そのような物語をどう構築し、どう共有していくか?は現代の一般的な教育制度で教えられているものではなく、少数のリーダーが「著者」となって作っていくことになるだろう。私たちはどんな未来を描けるだろうか?

 

驚きと願いくらい、自分のものにさせてくれ

何十年と生きていく中で次第に変動が収まっていく類のものがある。

 

一つは信念である。私はOSINTが働くと信じているし、それを実践しながら生きたいと思っている。日々過ぎ去っていく些細な通過物として曖昧に認知しているもの同士の中には、ときに感動と興奮が収まらなくなるような関係性の煌めきがある。そのような奇跡を追いかける人生でありたいと切に願う。たとえ論文にならず、金銭に結びつかず、評判にならず、多くの人にとって自明であり、そればかりか最初の認知は誤っていたとしても、自分の驚きに対してぐらい正直でありたいと思う。私にとって驚きは、多くの人にとっての涙や歓喜かそれ以上に、自分と、自分の人生と、なによりも自分の人間性を規定し続けている大切な感情で、これはどうやっても譲れない。

 

世の中には、公開する情報を制限することで利益が得られる類のものがある。粉飾決算縁故採用を持ち出さなくても、ある組織には同時に数人だけが映画を見られる制度があった。あまり知られていないからこそ成り立っていた。名の知れた企業の社員と一対一で模擬面接を行える抽選の制度もあった。道端で配られる製品はどれも先着だろう。そういう類の利益は、個人的にどうしても好きになれないのだ。小さい頃から、無料で手に入る素晴らしいものをできるだけ多くの人に共有することが、自己にとってこの上ない幸福に思えた。

 

自分の、おそらくはやりたいことの10分の1もできないであろう残り限られたこの生涯に、そんな一時的で影響限定的な政治と経済に、自分の認知資源の一欠片も使わせたくはない。やりたいこととやるべきことは違う、それは正しい。でも私は、たとえグローバル資本主義が真実だとしても、世界の構造の網目に絡め取らないよう問題解決を続けられる程度には鍛えられた(と思われる)ささやかな自分の力を信じたいのだ。例えうまく行かなかったとしても、自分は納得していられるだろう。私は普段リスクを取らない。だけれども不安定な遠くに行くリスクは、自己の人間性を規定する願いと驚きを信じるという安定化の効用に劣るのだ。

 

物語は、文系が作る最強の統計モデルである。私はこのOSINTというモデルを信じる。開かれた世界で繋がれた異質なもの同士が、未来の方向を変えてしまうような場面を度々目撃したい。大人になった僕がそれでもまだ夢を持っている。若き日のフィル・ナイトが早朝のオレゴンで見た景色と、同じものを僕も見たい。彼が競技の開始音が鳴らされたあとの一瞬に人生を見出したように、僕は計算機とデータが世界をつなぐその果てのない行為のなかに、かつて歴史の中のどの世代も成し得なかったような世界規模の奇跡が生まれると人間性を賭けて信じている。それは僕の信念であり、僕が選んだ物語である。

 

僕はたまに、反応が演劇のように過剰だと言われることがある。だが実際のところ普通に反応しているだけなのだ。僕にとって世界における反応とは、いくつかの理想的な型があり、それをなぞることなのだ。その型を外れると途端に不機嫌になり、色んなことの精度が落ちる。誰かに何かを共有したいとき、それは別に聞きたくないと言われると、大変悲しくなる。逸脱を赦すことが昔から苦手である。

 

地平線はおぼろげかもしれない。行程に終わりは見えず、疲れて休むこともあるかもしれない。休んで語らう友人は、話を聞いてくれないかもしれない。だから驚きと願いくらい、自分のものにさせてくれ。何もかもが不安定な世界で、僕は出発点をそこに決めた。

 

 

MP-hard (Measuring is practically hard) な問題

コンピューターサイエンスの分野には、NP-hard(エヌピー・ハード)と呼ばれる問題群が存在する。雑に言えばその問題集合に含まれる問題にはある種の困難性が付きまとい、扱う対象の数が増えるに連れてすぐにまともに計算が追いつかなくなるというものだ。宇宙が始まってから計算していたとしてもまだ終わっていない、その手の計算問題が世の中にはたくさんある。

 

この話はコンピューターサイエンスのカリキュラムで出てくるのだが、
ふと、そのアイデアをデータサイエンスの文脈で考えることはできるだろうか、と疑問に思った。

 

計算量とは、計算にかかる手数(ステップ数)を大まかに調べるための道具である。そしてデータサイエンスにおける基礎的な計算として、調べたいものの状態を数値で測るというものがある。測った数値のことを一般的にMetrics(メトリクス)と呼ぶ。

 

現代の人々は多様なものを測りたがる。

 

飛行機のメーカーごとの内燃機関の平均回転数、ウガンダにおける紛争による傷病度別の負傷者、大統領がA国の諜報員と過去2年間で何度接触したかの相手別回数統計、採取された1億個の細胞の中で変異が確認できる割合、GDPが昨年と比べてどの程度向上したか、産業別ではどうか、地域別ではどうか、都道府県ではどうか、市町村ではどうか、各企業ではどうか、各社員ではどうか、各社員の1ヶ月の貢献割合ではどうか、各社員の1時間ごとの貢献割合ではどうか、中途社員と新入社員別ではどうか、勤続年数5年以下とそれ以外ではどうか。

 

こうやって一つの物事をどこまで細かく測れるかを追求していくと、小学生ぐらいのときに全てを書きつけようとして結局何も書けなかったノートのことを思い出す。取得して保存して計算するまでの手数が多すぎるという困難性が付きまとうのだ。

 

このような現象を、NP-hardに倣ってMP-hardと呼ぶことに意義はあるだろうか。計算量は一つだけ定義してもそれほど役立たず、他の計算量クラスとの関わりで全体像が掴みやすくなる。PをPractical(現実的でほぼ確実に計算できる)などだろうか。などという取り留めのない発想であった。

最善xのなかみ:不完全情報と柔軟性、行動指針と一貫性

肯定側と否定側に分かれて第三者に互いの主張の正当性を納得させる競技ディベートにおいて、もっとも鍵となるのは周到な準備だと言われる。たとえ私たちがAという行動の良さをいくら熱弁したとしても、世界70億人に過去200年間に渡って実験した結果、Aが悪影響しかもたらさないことが再現可能な形で示されたという証拠を突きつけられたとしたら、何か間違いでも起きない限り第三者は否定側を支持するだろう。

 

しかし現実はそれほど白黒がはっきりしていない。明確な証拠が手に入ることは滅多にない。妥協策として私たちは、不完全な情報の信頼性を考量して最適な選択肢を選び、行動していく。

 

この一連の過程において最も期待利益を向上させる鍵となるのは、将来なにかより明確な証拠が手に入ったら、別の選択肢に乗り換えることも厭わないという柔軟性である。明らかな証拠が手に入ったら人は多く意見を変えるため、明確な証拠を手に入れるための調査戦略のほうが大事だ、と主張する人もいるかもしれない。柔軟性と調査戦略、どちらを最重要とみなすにしても、一つの前提を置いている:より良い選択肢が分かったならば、一貫性に固執する必要はない。言い換えれば、優劣の変化は一貫性に勝るとも言える。伝統よりも変化を重んじる、という言い方がされるとき、指しているのはこれだ。

 

一方で、多くの組織や個人は行動指針(principles)と呼ばれる表明を保持している。行動指針は、個々の思考や行動のあいだに存在する違いを取り払ったときに、一貫してそれらの思考や行動の前提、理由、共通点として存在する要約(gist)のことである。あの人は頑固な人だね、と形容されるとき、その人には「一度決定したら貫き通す」という行動指針が存在する。要約であり、その人が生成する思考や行動の多くにその成分が含まれるため、たかが記号列でありながら、ある意味でその人あるいはその組織そのものにかなり近い存在である。

 

このような思考整理を推し進めていくと、いくつかの傾向が観測できる。

 

1(成果主義の制約).最善を求める場合、過去の多くの選択は一貫できない。唯一、よりよい結果を求めるという、そのこと自体が透徹される。その様子は、多くの人から見たら、不思議な変化、「一貫しない行動」に見えるかもしれない。

2(行動原理の制約).最善を求める場合、いくつかの言語的に表現可能な要約は行動原理として永続しない。「一度決めたことを変えない」や「必ず顧客の要望に答える」は、最初の行動を決める戦略にはなるが、途中で顧客の要望に答えない(法律に差し障るなど)などに転換し、上書きされることを避けられない。

3(成果主義の不確かさ).「最善」は一意に確定できない。ものさしの選び方によって、異なる人の間、あるいは同じ人の違う時点間において異なる。そのため、「最善を求める」の最善は、プログラミングで用いる書き換え可能な変数xと同程度の拘束力しかもたない。

 

こうして考えてみると、成果主義において唯一、一貫して見える最善志向すら、どのようにも動かせるだけの自由度を持った曖昧なものであることに気づく。理想、自己にとっての真善美の設定が重要なのはそのためである。理想はxの内容を定め、続く全ての部分を定位置に付かせる。人々が「一流のものを見て考えろ」と言うとき、その助言はその人のかなり上流に効かせようとしている。

 

なんでこんなことを考えているのかというと、自分は、「不完全な情報しか手に入っていないにも関わらず、まるで事実として確定のようなふうに主張を述べる」ことが昔から大嫌いだったのだが、野球のルールも知らずに球場に来て批判しながら楽しんでいる人たちや、3文読んだ程度の理解で最近話題になった時事ニュースについて論じる人たちを見ている中で、これもまた一つの最善xの形か、と、前よりも正面から受け止められるようになったことを自覚した。その中で、自分が持っていた「十分な確信が持てないうちは話題に自説を持たない」という確固たる行動指針は、むしろ着脱可能にしたほうが良いのだという感覚を持つに至った。優劣の変化にさえ気をつけていれば、その行動指針はなくても問題がない。

東大に落ちた18歳のきみへ

やあ。落ち込んだ顔をしているね、きみ。

 

無理もないだろう、高校からずっと目指してきた第一志望の大学に、現役不合格というかたちで拒絶されたんだ。合格掲示板に並んでいた、君より前の受験番号たちはやけに番号の間が狭かったから、いきなり自分の番号も含めて15番も飛んだことにビックリして、信じられなかっただろう。何度も何度も、何列も何列も、注意深く番号を確認したのに見つけられなかった。君はいつのまにか湯島三丁目にいた。あまりに気が動転してその場を抜け出したんだ。あのときの体のほてりを今でも覚えている。ショックで胸が一杯だろう。僕の声もあまり耳に入らないかもしれない。

 

でもね、僕は、

きみに今日起きたことが、
これまでのきみの人生で一番良かったことなんだと、
そう伝えに来たんだ。

 

きみは他の大学を受けていなかったから、おそらく浪人するだろうね。あとすこし点数が高ければ、来月にはあの緑のきれいなキャンパスで大学生活を謳歌できただろう。君はまだ知らないけれど、あとで家に届く不合格通知書を見てごらん。きみが英語の試験で最後に書きつけた4択問題の答え。きみはbって書いたけど、あれは実はaなんだ。あそこで正答していたら、きみは受かっていた。

センター5教科7科目、二次試験4科目と、二ヶ月にわたって合計15時間以上もかけた大規模な試験の是非が、最終科目のラスト15秒で書き記した只1つの記号で決まったというのは何とも面白い話だと思わないか?候補者名を1000回用紙に書きつけたところで結果に何も影響しない日本の選挙制度に比べたら、きみが刻んだあのアルファベットは全く桁違いの重さだったわけだ。君は覚えている。あのときaにするかbにするか、本当に迷っていたことを。

 

きみはこのまえ、担任の先生に「受かっているかは五分五分だとおもいます」と答えたけれど、その感触はバッチリ合ってたんだよ。実は本当に採点基準一つで変わってしまうぐらいに、微妙なところだったんだ。かといってそんなところを当てても加点にはならないのが、大学受験の厳しいところだね(笑)

 

そんな紙一重で落ちたことが、どうしてきみにとって最高の出来事かって?それはね、ネタばらしをしてしまうと、実はきみ、来年は合格するんだ。そしてその年に出来たばかりの学科に進学する。きみが今進学を考えている文学部じゃない。全く違う学部だ。そこで、きみの一生を変えるような人たちに出会うんだ。しかも数年後のきみは東京にすらいない。あれほど好きだった東京から離れる。それほどまでに、そこでの出会いが何もかもを変えてしまうんだ。

 

君がもし大学受験で落ちていなかったら、あのときaと書いていたら、君はその学科には進めなかった、そもそも存在していないからね。どうしようもない。東大の制度は留年を許すけれど、君は特殊な状況に居て留年ができないんだったね。だから留年によるそこへの進学はありえなかった。

 

 

さて、きみが近い将来に経験するこの出来事から言えるのは、
人生最悪の出来事が人生最高の出来事になることもある、ということだ。

 

 

人の一生は本当のところ、何が良い結果に繋がるかほとんど分からない。もちろん勉強すれば試験には受かりやすくなるし、準備すればなんだって上手くいきやすくはなる。でも数年単位の事象間に生じる決定的な制約関係を見たとき、ほとんどの繋がりは事後的にしか分からないんだ。仲の良かった高校の先生が「東大じゃなくて、私大に行くことのほうが人生の成功に繋がることもある」と言っていたね。スティーブ・ジョブズはConnecting the dotsと言っていた。塞翁が馬という中国の故事に基づくことわざもある。この逆説はきみだけではなく、時代や地域を超えて観測された、普遍的なパターンなんだ。

 

だからきみに伝えたいのは、自分を信じてほしい、ということだ。

 

強調しておきたいが、自分を信じるのはとても難しいことだ。とくに数年かけて真剣に準備して望みの大学に入れなかった後なんかは。落ちたのはあそこで自分がサボったからかもしれない、計画的に勉強できていなかったのかもしれない、直前の詰め込みが足りなかったからかもしれない。試験中の集中力が欠けていた?当日の体調管理が悪かったのだろうか?自分の合格する素質や資格に対する疑念は次々と矢のように降ってくるだろう。自分を信じてほしい、というのは、それでも、何があっても、何としても、誰になんと言われようとも、自分を信じてほしいということだ。

 

わかりやすく言ってしまえば、
自分を信じるというのは、それ自体がいわば最悪の出来事なんだ。

 

彼や彼女に生まれていれば、愛情のある家庭で育てられて、危険のない地域で過ごし、運動もできて、容姿にも優れ、他人からはチヤホヤされて、頭の回転も早くて入試なんて何の問題にもならなかっただろう、という思いが頭をよぎったことがあるかもしれない。自分はなんで気の利いたことがパッと言えないんだろう、なんでこんなに頼りない自分を信じなければならないのか、と憤りすら感じる人も中にはいる。

 

でも自分を信じるというのは、その最悪の出来事が、最高の出来事になる可能性に賭けるということだ。誰がなんと言おうと、君のなかの抽象的な他者がいくら批判しようと、どれだけの反対意見をぶつけられようと、抗うということだ。きみはその抗いとして、エネルギーを何かに注ぐ。その注ぎ方は完璧じゃないから、完全なメリトクラシー(業績主義)の中では批判は容易かもしれない。でも現実の世界は、誰かの素朴なメリトクラシーよりだいぶ複雑なんだ。

 

 

だから忘れないでくれ。
とくに絶望のさなかにいる今だからこそ。
何が良い結果に繋がるかほとんど分からないから、
自分を信じるということを。

 

 

 

 

…えっ、ところで、未来のきみはどこで何をしているかって?うーん、言ってもいいけど、きっときみは信じないだろう。ひょっとしたらきみはその場所のことを知らないかもしれない。君が好きだった英語の講師が、「大学を卒業するときに自分がこんな職業に就いているとは思いもしなかった」と言っていただろう?そういうことが君にも起こるよ。学ぶことは、きみを遠くに連れて行ってくれる。それが学ぶことの力なんだ。

 

 

一説によると一度しかない人生だ、十分好きに楽しんでくれ。