蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

それは最後ではなくて、全ての瞬間だから


日々を過ごすなかで、楽しさは不可欠だと思うようになった。

楽しさは単なるエンタメや娯楽に留まらず、様々な活動につけるある種の胡椒や醤油みたいなもので、いろいろなものに合う。活動によっては楽しさというか「ツラくはない」ぐらいになる。ゲーミフィケーションはその1つに過ぎなくて、楽しさを開拓する営みは、もっと幅広くて奥深い。

 

すべての楽しさを捨ててまで他を最大化するルートはある。それはgrinding、すなわち過酷なルートであるので、一般にGルートと言われる。Gルートの主張は、「誰もが完全な幸福を手に入れたN+1世代目」をできるだけ早く実現するために、それまでの世代を犠牲にするべきだというものだ。確かに楽しさが消えるほどに突き詰めれば、単純な指標が改善することもある。目的のためには楽しいことばかりやってはいられないのも真だろう。それでもGルートの主張は合理的ではない。時間軸を千年単位で眺めて、仮に『ホモ・デウス』で説かれる非死や神性が達成されたと仮定しても、完全な何かにはまだ程遠い。N+1世代目はおそらく訪れないため、Gルートのエンディングは全世代の不利益に終わる可能性が高い。そしてGルートのエンディングを興味本位で見ることはできない。

 

もうひとつ別の道もある。悲惨なミライに絶望し、無力感と倦怠感の中で過ごし、たまに気晴らしもするけれど、大枠としてはただ崩壊を待ち続けるというものだ。このルートは特に何もしなければエンディングまでたどり着けるので、No actionルート、略してNルートと呼ばれる。GルートもNルートも楽しさからは縁遠い。

 

もう一つだけ別のルートがある。
それはPeopleの頭文字を取ってPルート、または「人々の辿る道」と呼ばれる。

 

Pルートは、自由意志を仮定された個人が、各自の判断でいろいろな選択をしていくというものだ。自分だけを優先して行動することもあれば、将来世代の利益を考えることもある。

 

PルートはGルートと違って、特定の「終わり」の瞬間で目標を定義しない。ゲームに勝つことではなくて、ゲームを続けることが目標だ。Pルートにとって重要なのは、最後ではなくて過程、もっと言えば全ての瞬間だ。それぞれの世代が健全なかたちで頭を悩まして、満足感に満ちた生涯を過ごすことにPルートの意義がある。Gルートを望む理想主義者が心に描く「完全な分配」ができない中で、この分配は一つの最適を達成している。

 

Pルートは各個人の同質性を求めない。尊厳は各個体が持つ定数として割り振られ、保全される。ただし、尊厳は相互に対立し合うときは毀損されるし、対立がなくても孤立して自滅することもある。そのようなかたちでPルートは痛みに溢れており、ゲームバランスはあちらこちらで壊れている。投げ出したくなるような展開が待っていることもある。自分の世界観が覆ってしまうような悲劇も、ひょっとしたら起きる。

 

PルートはGルートやNルートより圧倒的に手間が多い。ひとつひとつの行動をいちいち考える必要があって、頭が痛くなる。不満足な結果に終わることもしょっちゅうだ。Pルートで遭遇する何についても解ける保証はない。戦争の時代に生まれた世代は、平時の意味での幸せに出会えないかもしれない。

 

それでも、Pルートを愛する人たちがいる。
様々な視点から楽しむ自由を与えてくれるからだ。

 

何かを変えようと行動を選べる。
ツイてないことを鉄板ネタにする。
大切なものを失ったら、残っているものに感謝する。
感謝すら出来ないほど落ち込んだときは、たくさん泣く。
そうして8年ぐらい経ったとき、自分がまだ歩けることにふと気づく。

 

Pルートは快適でも単純でもないが、私達を見捨てない。
それは最後ではなくて、全ての瞬間だから。

 

人間の興味深い点の一つは、前に誰かが言っていたように、
どんな悲劇や些事にすら、誰かが意味を見出して進んでいく点だと思う。

 

Pルートは人間ドラマに溢れていて、感情を強く揺さぶられる。
いつも転んでいた子が、歩けるようになる。
まったく天文学的な確率で、運命の出会いが起きる!
予想もしていなかった場所で、驚くような大発見をする。
Pルートはやみつきになる。純粋な感動に出会えるからだ。
個性豊かなエピソードに溢れており、話が尽きることがない。
それは最大効率でないかもしれないが、真の意味で豊かである。

 

自分はそんなPルートを歩んでいくことにした。
現実がどれだけ取り返しの付かない形で壊れていようと、
フィル・ナイトがゴングの鳴る一瞬に見出したのと同じように、
人が知るべきあらゆることがそこに詰まっていると思ったのだ。

 

私は走ることが好きだが、馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたものもないだろう。ハードだし、苦痛やリスクを伴う。見返りは少ないし、何も保障されない。楕円形のトラックや誰もいない道路を走ったりしても、目的地は存在しない。少なくともその努力にきちんと報いるものはない。走る行為そのものがゴールであり、ゴールラインなどない。それを決めるのは自分自身だ。走る行為から得られる喜びや見返りは、すべて自分の中に見出さなければならない。すべては自分の中でそれらをどう形作り、どう自らに納得させるか、なのだ。

 

For that matter, few ideas are as crazy as my favorite thing, running. It's hard. It's painful. It's risky. The rewards are few and far from guaranteed. When you run around an oval track, or down an empty road, you have no real destination. At least, none that can fully justify the effort. The act itself becomes the destination. It's not just that there's no finish line; it's that you define the finish line. Whatever pleasures or gains you derive from the act of running, you must find them within. It's all in how you frame it, how you sell it to yourself.

『SHOE DOG』(フィル・ナイト著)

 

風とスプートニクが話していた。

 

完璧な文章は存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。

 

 

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Pルートを辿ることは自分にとってどういうことなのかについて、最後に語る。

 

僕は本を読むとき、傍線を引くのが好きだ。Kindleアプリならハイライトをよく使う。一方で「本に線を引くのは頭に残らないから意味がない」という意見も耳にする。読みっぱなしにしないで、能動的に情報を使ったほうが定着しやすいという話だ。なるほど確かに、情報を統合して活用する上では、線を引くよりも優れたやり方があるのだろう。

 

僕はその意見に深く納得した。

 

そうやって納得をした上で僕は、今日も変わらずに線を引く。これまでも引いてきたし、これからも引いていくだろう。それは要約して糧にするためではない。その傍線はむしろ足跡に似ている。本を読んだ過去の自分がどこに心を動かされたのか、記録するために引いている。蛍光ペンの交差点というタイトルは、そのような願いのもとに付けられた。あの日あの時感じたことを書き付けておいて、どの道を曲がって来たのか思い出せるように。人はどんなに大切なことでも、書いておかなければ忘れてしまうから。どの交差点での決断が僕を作ったのか、いつまでも忘れないように。最大効率の人たちには愚かで実りのない行動に見えるだろう。でもPルートでは全ての瞬間に平等な輝きがあり、各個人は自己判断でそれを選ぶ。僕の基準は驚きと願いだった。僕はそれらの輝きを、これからも蛍光ペンの中に残そうと思う。

 

何度も何度も9年も、思い浮かぶことを書くうちに、書いているときの僕は、とても穏やかな場所に居ることが分かってきた。書きたいことが何なのかを掴もうと没頭して、どこか別の空間に漂っている。その場所はとても不思議で、世界のどこに居ても訪れることができる。生まれ育った家からも、遠く離れた学校からも、たまたまそのとき住んでいたアパートからも、まるで世界に地域差なんてないと主張しているみたいに、平等に立ち入ることができる。その場所は夜のようでもあり、夢のようでもある。僕はその不思議な場所を、時間をかけてもう少し調べてみようと思う。

 

次の目的地は決まった。21世紀版の楽しさを探していくと決めた。
僕自身が驚くほど楽しみ、そして他の人も楽しめる何かを作るために。

 

《 2022年1月、Pルートのプレイヤーの手記より 》