蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

ソファに座る

暗がりの中、誰も居ない居間のソファに座って、自分の感覚に意識を向ける。ふとソファの上に置かれたブランケットが左膝に当たることに気づき、今はいらないと遠くに退かす。こういうことができるようになった。素足の裏に毛の長い絨毯が触れて気になったので、端から3重に折って足に触れないようにする。人生でこんなことをしたことはないし、絨毯の本来の使い方からすれば誤りだろう。でも今日はこれが正しい。そうして素足の裏に、コーティングされたフローリング床の感触を感じた。

肌に感じるのは床とソファだけしかない。電子機器も携帯していなくて、お酒やタバコや、もちろん薬物の助けもない。友達からの遊びの誘いが届いているかも知らないし、何かスペシャルな予定が待っているわけでもない。でも長年悩んでいたことに少し改善が見えたせいか、不思議なくらい満ち足りていて、こうやってひとりでも満足できることを僕は一つの希望として目指していたのかも知れない、とふと思う。

なんのことはない水が美味しいとき、自分が良い状態にいることに気づける(そのこと自体は3年前にも書いた)。社会の基準から切り離されて、自分の感覚だけが優位になる。資本主義の中で日々ばたばた働いて染まると忘れてしまうが、僕にはきっと元来、根本のところにそういう部分があるのだろう。ただの冷たい水を飲んで、なんてことはないソファに座って、どのタイムラインもチェックしなくても、ちょっと夜空が見えて、胸のあたりの体温や呼吸の上下が心地よいと感じられる、過去に出会ってきた人たちとの色んな場面を思い出す、そんな時間を求めているところが。そりゃ確かに競争は向いていないだろう。それはもう充分に分かった。でも何か他には向いているかもしれない。風変わりな人生と様々な不思議な縁を通して世界の広さに具体的に触れていく中で、僕はそういう希望を持つようになった。

ドラマの登場人物たちが、どうしてソファに座っているだけであれだけ安楽そうなのか分からなかったけれど、根本的に各人が満ち足りるために必要なものへの歩みは、他の人の預かり知るところではないのだ。それをシェアしてくれて感じられる喜びや悲しみの共有もあれば、一人で感じる味わいの深さや言葉にならない余韻もあるのだろう。