自分のボイスを捨ててはならない
資本主義の中で正気を保つことは難しい。
自分が発している声が自分のものなのか、
あるいは資本主義にインストールされたものなのか、
分からなくなることがある。
資本主義の核に近づくほどに、いびつな矯正を強いられる。
痛みが薄れていくにつれ、それが唯一の正しい位置なのだと思いこむ。
痛みを感じることは誤りであり、効率的ではないのだと。
でも本当は違う。
私たちはそれぞれ違う子ども時代を過ごした。携帯のアプリのような同一のコピーではなく、バラバラの子ども時代を。本人以外誰も興味を持たないような雑多な詳細に満ちたもので、一見そこにエンタメ的な価値はない。
それはコピーすることに価値がある類の情報ではない。更に重要なこととして、だからといって価値がないわけではない。それは単に交換や複製といった操作ではその価値を観測できない、生身の人間を構成する部品なのだ。心臓や脳といった臓器に近い。神経回路の中に私たちの記憶は刻みつけられている。その記憶は机の引き出しの中の傷のようなものだ。外からは見えないが確かに存在している。その傷は、表面的には矯正されたはずの人間に対して、本当は何も直っていないことを静かに主張している。
私たちはそれぞれ違う日々を過ごしている。たとえ同一の宿舎に住んでいたとしても、体験は個別のもので、感想は個人のものだ。私たちは引き出しの傷のことを普段あまり考えない。それは体力のいるプロセスで、長く取り組みすぎると矯正が崩れてしまう。それは資本主義、あの資源の飽くなき私有の活動において、単純に不利になることを意味する。
私はそれでも構わない。私が志向するのはより包括的で人間的な生活だ。誰も興味を持たない記憶も私を構成している。私は資本主義が好きだが、その資本主義が私に「その役に立たないゴミを捨てろ」と命令したとしても、私は従わないだろう。私たちは資本主義の奴隷ではないのだ。人間はボイスを捨ててはならない。自分のボイスを捨ててはならない。