蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

数学教師と15秒

高校入学当初、数学のテストが大の苦手だった。

「分からないもの」の扱いが、当時は今よりよほどマズかった。

遭遇するとまず思考が止まる。頭のなかに流れる、記号と音声の混ざった抽象的な思考単位が感覚から遠ざかり、目線、両手、あるいは腰への指令が途絶える。いわばノーガードの状態になってしまい、記憶や慣れから解決策を引き出すことができなかった。

そのことを担任教師だった数学教師に相談したら、「テストが始まったら15秒時計を見るのはどうか」という話をされた。

 

いま考えても不思議だ。

なんで彼はあんなことを提案したのか。

 

彼の主張は、自分が焦っても落ち着いていても時の流れは一定で、試験時間の長さに比べると15秒というのは欠片でしかなく、まだ十分に考える時間がある、という結論に至るために、15秒のあいだ秒針を眺めるのが有効だと言うのだ。結局僕はそのアドバイスを有効だと思えなかったので、別の手法で対処していた。

 

いまは、秒数に対する感覚が当時と違う。

 

ある先生に、君はすこし仕事間での切替が遅いかもしれないという旨の意見を頂いたことがある。自分も何となくそれは感じていた。いや、恐らく例を挙げれば誰の目にも明らかなぐらい僕は切替が苦手だったのだろうが、それを解決すべき問題として定式化することが、自分の性質的な弱さを認めるようで嫌だったのだろう。

 

僕は・切替が・苦手だ。

だから・対処することが・望ましい。

 

15秒のことを考える。

律動する秒針を、集中するために想像する。

 

コンピュータがBIOSからブートローダブートローダからOSと、ユーザー入力を受け付けて任意のアプリケーションを利用できるようになるまでの再起動時間は、恐らく現代のSSDで15秒くらい、HDDで30秒から1分目安ぐらいだろう。

 

あの数学教師は起動のため、とは決して言わなかった。そもそも僕のそのような問題に気づいてはいなかったと思う。だが、僕は5年以上経ってあの発言を、起動という手法で自分を立て直す手段の提案だった、と別の面から再構成してみよう、と思い立った。

 

いまは、「分からないもの」を数え上げられるようになった。

記号を読めば、いくつの対象と関係で構成されているか認識できる。「標本平均の標本分布」のような多層で構成された対象(「標本」「平均」「標本」「分布」と、「標本平均」「標本分布」と、「標本平均の標本分布」の3層)や、ijのように区切りの明示されない2連の添字記号や、プログラム中の.(ドット)やエスケープ用バックスラッシュ記号のような描画量と構造の複雑さがまるで対応していない物体に至るまで、自分が認識しているか・していないか命題のように真偽判断できるようになった。

 

そこに不安は感じていない。

自分は、その点については、大学で学ぶべきことを身に付けた。

 

だから、必要なのは、ちょっとまとまった時間だ。

 

15秒、30秒、1分など、もしその後にパフォーマンスを1時間なり2時間なり高く保てるのであれば、捨ててもいいコストに過ぎない。そこで一般人の2倍かかろうが3倍かかろうが、そのコストではアウトプットの低下は決まらない。ここは、切り詰めてはならない。

 

Command + alt + ^ キーで、Macの時計を限界まで拡大して、淡々と増加していく数字を見て、たまに目を瞑りながら、自分の内部の何かの機構がリブートするのを静かに待つ。

 

捨てるためだけの時間を、大切にする。

これちょっと、しばらく実践してみる。