蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

思考の積み木

「あなたには、相手を殴ることしかできないとする。
この状態で、親愛の念や忠告やジョークを相手に伝えることはできるだろうか」

という問いを、昔ふと考えたことがある。

 

目的を果たすための道具立てがそもそも無ければ、何をしたとしても、0か負にしか辿りつけないというのが、この問いが最終的に意図することである。

 

関連して昔から気になっていることが3つある。

 

1.類推・比喩・ステレオタイプについて

 考え出したきっかけは「頭のいい人は比喩をあまり使わない」という一風変わった主張を見たことによる。

 その後は「それって僕の専門である▲▲と似てるね」「なるほど、★★★みたいなものだね」など多くの人が類推で理解を進め(たせいで細部について誤解したままになっ)ている社会や、昔の中国で仏教が道教の一種として受容された(ことで不死と長寿の属性が前面に出てきた)り、はたまた日本では日本の神の一種として受容されてきた(せいで権現のような観念が生じた)歴史的事実に出会う中で、また実際に組織に所属していた人をステレオタイプとして扱うことで将来入ってきそうな構成員を予想している人と間近に接する中で、類推や比喩やステレオタイプによって達成される理解の程度に興味が湧いた。

 

 乱暴に言えば、0割から9割正しい理解、ということだろうか(大して狭まってない)。理解のスピードは、最大の魅力だと言えるほどに早い。物書きの言葉でいえば、類推・比喩・ステレオタイプで理解するのは下書き(草稿作成)に近い行為なのだと思う。頭のなかに出来上がるモデルの大枠を素早く捉えるにあたって、一旦それらを採用する(半ば眉唾ものだと感じながら。時に深く信じすぎてしまっていることもある)。

 

 比較として、 機械学習が(例えば、スパムメール判定が)、7〜8割の精度にも関わらずだいぶ世の中に役だっていることを挙げたい。ある種の仕事は、7〜8割の精度での前処理と、10割の精度での細かな後処理で目的が達成されているようだ。

 

2.土台もしくは叩き台として摂取される言葉について

 同じ講師の授業を度々受けたり、同じ漫画を数年あけて何度も読み返したりすると、頭に浮かぶ文言や口をついて出る言葉が講師や漫画のキャラクターのそれにかなり近づく。時には感情すら似たものに変化していく。

 

 そうして思考の単位として摂取された単語やフレーズが、冒頭に挙げた「殴って親愛問題」に、殴る以外の選択肢を与える。親愛の情を伝えたいときは丁寧な言葉をかければいいんだ(待てよ、でもジョジョだと空条承太郎は母親にぞんざいな言葉遣いだったな…)という段階まで、問題解決に有効な積み木の1つさえ手に入れば、だいぶ未来が変わる。このことは、特に若年層の恋愛の開始において顕著である気がする。

 

3.言葉を用いないで外力として働く環境、特に伝統について

 儀礼が数百年も途絶えなかったり、特定の施設に入ると作業する気や人の話を聞く気が生じることは、注目に値する。特に伝統の上位概念が環境であることは、辞書には載っていないが重要な事実である。