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蛍光ペンの交差点[別館]

"どの点に関心をもつべきか ―をわれわれが学びとるのは,もっぱら仮説からだけである"

ズレに対する2種の賢さ

知性と呼ばれるものがある。賢さ、地頭、センスなどとも呼ばれる。

試験で測られる賢さは、最低点を超えていれば賢い。あるいは順位が高いほど賢い。

他人が判断する類の賢さは、期待を超えていれば賢い。知らなければ大抵賢いとなる。

ダメージに気づかないことも、時によっては賢さかもしれない。

 

それらとは異質ながら、生存に不可欠な賢さがある。
それはトラブル対応の秀逸さである。

 

たとえば妻の叔父(昨年以来会っていない)の名前を間違えて呼んでしまったとする。どのような応対が賢いのだろうか。気になっている相手を食事に連れていこうとして、15分歩いたあげく違う店の住所に向かっていたことに気づいた。どう対応するとこの関係は次に繋がるだろう。アルゴリズムの問題で定式化の種類が合っておらず解けない。気付くとしたら何をしたからだろう。

 

上司と約束した時間に現地に行っても上司が時間を間違えて来なかった。あるいはその逆。組んだ実験系の結果が想定と異なった。手順のミスか、前提のミスか、機械の故障か(『闘うプログラマ』には機械の故障が原因だと気づかず2週間プログラムを直し続けたプログラマの実話が出てくる)。

 

スーパーに車で行ったら駐車スペースがなかった。大事なプレゼンの前日に高熱が出た。納期に間に合わないと相手から告げられた。どうしても問題が解けない。誰に相談するのが得策だろう。

 

第一志望の大学や会社に落とされた。想定していたものとは異なる同僚、設備、業務のなかで、何を考えるのが秀逸な対応だろうか。大切な存在と死別した。天災に遭遇した。齢50にして生き別れの息子がいると告げられた。3億の借金を負った。

 

もちろんいくつかの問題は、そもそも問題になる前に予防すべきだという意見もあるだろう。ではそのようにして予防できるものをすべて除いたとする。そのあとにまだしつこく残る、起こりうるトラブルに対する対応力だけでいい。これは他のことを考えるための文章ではない。

 

これらのトラブルに対する対応の「秀逸さ」をどう言葉で表現するのか、それが実は難しい。僕が思うに、秀逸な対応をする人は必ずしも自信満々ではない。自分の行なった対応が見事であることを認識すらしていない。むしろビクビクと怯えていたり、はためにはみすぼらしく見えたり泥臭く見えたりする。高熱なんか出たときは意識すら朦朧としている。だから「秀逸さ」はいつも事後にそう評価される。

 

他に強調すべきこととして、対応結果が芳しくなくても構わない。優れたプレゼンは必ずしも一位にならない。あるいは結果が好ましくてもたまたまであれば必ずしも秀逸な判断だとは言えないだろう。だから秀逸さはリターンそのものでは定義できず、リターンの期待値でしか定義できない。

 

つまり秀逸なトラブル対応力と表現できるその賢さは、トラブルに際して高い期待値を持った行動をすぐさま取れるか、ということになる。これは、思うに性格とスキルである。

 

以上が1種目の賢さである。そしてもう1つある。
トラブルに対する解釈転換の秀逸さである。

 

自転車で行こうとして雨が降ったとき「たまにはバスもいいか」と考える。部門が撤退して解雇になったときこれもまた人生の不条理と割り切る。電車で変人(a fruitcake)に出くわしたとき、愚痴るのではなく何両目に乗ると最も確率が低くなるか考えてみる。最近習った多腕バンディット問題の枠組みが適用できないかダメ元で検討してみる。

 

好きなことを仕事にしてみて理想と現実が違ったとき「なるほど、これとこれを解決すれば理想の職場になるのね」と問題解決の枠組みを追加する。転職先の要件を満たしていない時にスキル習得過程を具体的に考えてみる。ぶどうを酸っぱくする以外にも、思考はいろんな道を僕たちに提供してくれる。

 

思考の賢さは、外からは見えにくい。作業をしている本人だけの問題である。しかし、1つ目の賢さを含意する行動の実施には、このようなある種のポジティブ思考が重要、いや実は不可欠であると思う。そしてそのポジティブ思考は同じ局面でも複数存在する。シェリル・サンドバーグは、高い学業成績を「お母さんが助けてくれたから」以外に「What a damn question ... I'm awesome!」と答える学生も居る、と述べている。