蛍光ペンの交差点[別館]

"どの点に関心をもつべきか ―をわれわれが学びとるのは,もっぱら仮説からだけである"

21世紀を生きてみて:生産性と仲良くする

 

歯磨きのような思考で述べたように、同じ話を何度も何度も何度も何度も何度も考えることには時に大切な意義がある。今回の話は、内容的には2年前に書いた專攻分野が決まらない高校生への計算機科学のすすめを一般化したものになる。

 

私はこれまで、多くの人にプログラミングを学ぶように語ってきた。それは、かつて中国の歴史書に登場する「塩」の時代変遷を追うだけで十年分の研究になったものが、今では位置の特定は十秒、全ての過程をこなしたとしても恐らく1年は超えないで、同質あるいはそれ以上の成果を出せてしまうだろう現代の魔法を身につけて、より効率の良いアプローチを採用してほしいと思っていたからだ(楽しいとか、そういう理由ではない)。

 

しかし幾つかの実社会組織で働いてみて、魔法らしきプログラミングの更に背後にあるのは、もっと大きな流れであることを強く自覚するようになった。

 

それは生産性改善の流れである。

 

 As Karl Marx and Friedrich Engels saw clearly, the 19th-century business class

    

     created more massive and more colossal productive forces than all preceding generations together. Subjection of Nature's forces to man, machinery, application of chemistry to industry and agriculture, steam-navigation, railways, electric telegraphs, clearing of whole continents for cultivation, canalisation of rivers, whole populations conjured out of the ground -- what earlier centry had even a presentiment that such productive forces slumbered in the lap of social labor?

 

(拙訳:カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスがはっきりと目撃していたように、19世紀の資本家階級は「全ての過去世代を総合したよりも遥かに莫大な生産性を創出した。自然力の支配、機械、工業や農業への化学の応用、蒸気船による航海、鉄道、電信、全大陸の耕地化、運河の開拓、大量の人口ーー労働者階級の中にそんな生産性が眠っていたなんて、どの過去世代も前兆すら感じることができなかった」)


(出典:『ゼロトゥワン』6章内で引用された『共産党宣言』の一節)


(注:ちなみに上の段落は6章で出て来るが、7章で出てくる指数関数の性質ーー「いちばん大きな地震は、それ以前の地震すべてを合わせたものよりも大きい」「いちばん大きなリターンはフェイスブックから来て、他の投資先全てを総合したよりも大きかった」というパターンの伏線になっている)

 

すごく乱暴に言えば、プログラマは資本家階級を模倣している。つまりコンピュータが労働者階級で、その労働者たちがmassiveでcolossalな生産性を持つように、プログラムという労働者たちにとっての「制度」を作り上げることで、「全ての過去世代を総合したよりも遥かに莫大な生産性」を創出することに成功した。シンギュラリティはその入れ子が3段になるだろうという予想で、まあプログラマとして働いてみた経験からするとほぼ間違いなくそれは実現しない。ただ、その入れ子構造は単に歴史の大きな趨勢の副産物に過ぎない。3段にならないことは、このトレンドにはほぼ影響しないだろう。

 

マルクスたちが100年以上前に書いた表現が、そのまま2017年の現代を表現できるのは偶然ではない。生産性のギネス記録更新はまだ終わっていない。21世紀の我々は、彼らが経験したプロセスの最中にまだ生きている。

 

 『ゼロトゥワン』の作者、ピーター・ティールはテクノロジーをdo more with lessを可能にするものと定義した。「労働者階級の中にそんな生産性が眠っていたなんて、どの過去世代も前兆すら感じることができなかった」とあるように、同じもの、あるいはそれより少ないものを使って過去以上の成果を出すことが根本的には生産性改善だろう。

 

ただ私が思う生産性との付き合い方は、もう少し庶民的な感覚に基づいたものである。

それは以下の2本立てからなる。

 

原則1.do more with less を志向する

原則2.安定性を味わう

 

プログラミングを学ぶとよい、という話は原則1に当てはまる。それに限らずイノベーションと呼ばれるものや発明と呼ばれるものはどれもここに入るだろう。特殊なチームを組んで、専門知識の組み合わせで良い製品を作るのもそうだ。

 

原則2は、もっと人間的な話である。足るを知る、という表現が多少近いが、すこし違う。それは逆説的に、do more with lessには役立ちそうにないものを、しかしdo more with lessするという禅問答のような話である。仕事場というより私的な場での意味合いが強いだろう。

 

生産性の指数関数的な伸びが存命中に終わるとは私には到底思えない。私たちの成果は次々に次世代によって更新され、過去の遺物となっていく。それはy軸を生産性で取ったときには喜ばしい結果ではあるかもしれないが、その更新が終わらないことを考えるとそうとも言えない。人間的な表現で言ってしまえば疲れるプロセスである。我々は常に圧勝しては惨敗していく日々をこれから送るのだ。しかも学ばなければ惨敗しかない日々になる可能性すら十分にある。

 

我々は変化していく世界のなかで、不易なものに価値を見出すことだろう。資本家階級であれ、労働者階級であれ、コンピュータであれ、不安定な状態では高い生産性の前提を長く満たさない。つまり、そういう戦い方もあるという話である。

学ぶことは楽しいことではない:学び続けるスキルとは何か

私は、一般に吹聴される「学ぶことは本来、楽しいことだ」という主張は誤っていると思っている。

 

たとえば英語を始めたとする。最初は英会話にせよニュース購読にせよ、新鮮な気持ちで読めるから楽しいと感じるだろう。だが活動がパターン化していく中で、あなたは違和感を持ち始める。ネイティブが自分にレッスンをしているときは聞き取れるのに、彼が別のネイティブと話しているのは全く理解できない、彼らの話している米国政治やらNFLやらの話題についていけない。気がつくと彼らf***ばかり言ってる。レッスンでは一度も使っていないのに。英字新聞を読もうとしたら英単語が難しすぎて2段落しか読めない。スクロールバーからすると、まだ9割以上残っている。米国政治について前提知識を付けようにも、彼らは入門書を知らない。彼らに説明してもらっても人名や事件名が多くて理解できない。辞書を引きながら読んでもハマる語義が見当たらない。仕事や家庭は忙しい。そのうちに、活動自体からフェードアウトしていき、以前の日常に戻っていく…

 

あるいは筋トレを始めたとする。最初はいや〜普段運動してないからきっついな〜とか笑いながら、それでも終わった後の爽やかな疲労や久しぶりの筋肉痛に前進を感じ、健康的な生活習慣に一歩踏み出した自分に対して悦に浸ることができるだろう。だが3−5回(1−2週間)やるうちに気持ちに変化が起きてくる。シューズを持ち運ぶのが面倒だ、普段持ちのバッグが小さくて気に入ってたのに変えないといけない、トレーニング中の辛さが想像できてウンザリする、今週は仕事が忙しくてもっと寝たい、なんで仕事で疲れて更に疲れなければいけないのか、成果が出るまでに少なくとも2−3ヶ月って長すぎでしょ、しかもほんの少しの変化だし…これを半年も一年も繰り返す訳???アルコールも控えろって?日々のストレスをナメてんの?と、生活改善の詳細に突き当たる…

 

様々な人の経験談を聴き自己体験を経る中で、私は、上述の標語はイデオロギーであり、教育機関の宣伝や自己啓発に使われるテンプレートに過ぎない、とみなすようになった。

 

私はむしろ、「学ぶことは本来、苦しいことだ」と思っている。人は、前提知識が揃っている段階で、適切な速度と場で提示された時しか記号に関する新規事項を理解できない。お膳立てをこれでもかと尽くされて初めて、ギリギリでエンターテインメントに分類できる(=楽しい)ものになる。身体知であれば、疲労(時に吐くことも)、故障(後遺症になることも)、停滞、動機、不正確な情報を制御しながらの、長い長い戦いになる。そう考えると、なぜゲーミフィケーションという考え方が流行ったのか、なぜ優れたプロジェクトマネジャーは概して新しい趣味を始めることに成功するのか(n=3)が自然に納得できる。すなわち、今流行りの「学び続けるスキル」とは、端的には以下の2つの混合を指すと思う。

  • ポジティブシンキング:苦しみに楽しみを混ぜ、学ぶこと自体の一次効用(first-order consequence)を高める、究極的には自己目的化させる
  • 問題解決スキル:苦しみの増幅器となる現実の困難(時間の確保、用具の整備)の弱体化、あるいは削除

 

そうして、私は学ぶことは本来、楽しいことだ」が指し示そうとしている現象を、「学ぶことは本来苦しいことだが、学び続けるスキルによってある程度まで楽しいものにできる」として理解している。スキルなので、個人差と熟練差がある。加えて、ポジティブシンキングで解決しているのか(傍から見たら辛いが本人は気にしていない)、問題解決スキルで解決しているのか(他人からも良い環境で行えているように認識される)にも違いが現れる。

 

 

さて、このように捉えることで何が変わるだろうか。
私は学習コミュニティの役割が変わると思っている。

 

学習コミュニティは、複数の学習者に同一の進度を課すシステムとしてこれまで機能していた。しかし今後ますます、個々人の進度のズレの差が開いていく、そしてもはや形骸化する段階まで来ると思われる。そのような状況になった場合、進度にそぐわない長い授業よりも進度を見極めて発した熟練者のたった一言のアドバイスのほうが有効に働き、実質上の学習システムとして働く可能性が高い。そうなった場合、学習コミュニティにおいて以下の3点が重要となる。

  • 大量の学習時間の強制(会社を辞めて2年間過ごすプログラムなど)
  • 個人では用意が難しい資材(論文アクセス、有識者との面会)の確保
  • 進度の異なる学習者間の交流

 

 

これらの3つは、どれも「学び続けるスキル」の涵養に役立つ。感覚論で言ってしまえば、勉強はとても辛い。私のような凡人はたった一人で辛いことを3年も5年も続けられるほど強くない。何らかの外力が必要であり、カリキュラムはその役割を果たす。多くの機関は情報リソースへのアクセス権を与え、時に触媒として非連続な変化を生み出す。

 

また、学んでいて問題があることは分かるが、解決策が分からないことは多い。そんなとき、分散システムは楽しいぞ〜計算機理論楽しいぞ〜みたいな、もはや上述のような定式化が後景に薄れ、純粋にエンターテイメントとして楽しんでいる人たち、あるいは逆に私より苦しんでいる人たちと関わると、どのような思考法で臨めばいいのか?どの問題を真っ先に取り除くべきか?私はどの問題を解決してきたのか?のヒントと動機を得ることができる。同じ授業で学んでも、全く別の問題を解く人たちも多い。彼らのツールの使い方から、自分のツールの使い方を見直すこともしばしばだ。

 

 

 

 

 

自信を失った時の癖

人生で群を抜いて不安だったときと言えば、浪人で予備校にフルタイムで通っていたときだろう。合格最低点に0.4点だけ足りず始まった浪人生活。次の失敗は、どのような理由があったとしても存在してはいけなかった。

 

授業を終えるとよくそのことが頭を過ぎった。そんなとき、自習室の席に座り、裏紙を取り出して、そこに10分間、

 

今日一日何を新しく知識として学んだか

 

を箇条書きで書き出すという作業を行なった。時間を測り、大抵は目を閉じていた。10から15思い出せるぐらいが平均で、30行くとこんなにもあったのかと自分でも驚いていい気分になった。この作業をすると、ああ自分は確かに昨日より前進している、という安堵感を得ることができた。覚えている限り、浪人中の一年間のほぼ毎日、この習慣を続けていた。高校生のときはそんなことはしていなかった。

 

面白かったことに、合格後にこの習慣を続けようとしても、全く上手くいかなかった。数年間で5回は試したと思う。どうにも続かないのだ。ただ、今日の試みは少し違う感触を得た。

 

今日は仕事で不安になるような出来事があった。ふと、これまでの自分を見返してみよう、という気分になり、紙とペンを取り出し(紙とペンは偉大な道具である)、過去1年間にあったポジティブな出来事を思い出しては、だいたいの時間軸に書き付けていくということをした。ネガティブな記憶が思い浮かぶと思考の方向を切り替え、別のポジティブなことを思い出すようにした。忘れかけていたような記憶が蘇ってくると、ああ、そういえばそんなことあったな…ああそういえばこんな人に会ってこういう話をしたんだ…と自分で自分の記憶に驚く瞬間もあった。

 

1日ではなく1年、知識ではなく記憶にしたにも関わらず、終わった後の感覚が、浪人時代のそれにとても似ていた。私には、これは大切な事実である。

 


さて、ブログを書いていると、自分に向けて書いているのか、それとも誰かに向けて書いているのかが曖昧になる瞬間というのがあって、それがとても心地よい。もう少し踏み込んで言うと、自己が自己に評価を与えている感覚を得る手段として私にとり最適のものが、一人で時間を取って書くということなのだと思い始めた。

 

必須な記述を選び取るという意志決定が、自分にとって有意義な記号群を集めた幸せな光景を可能にし、その濃度によって記憶力のない自分は初めて、自分の人生を生きてきたと実感できるのだろう。

 

 

 

 

パンドラと希望の箱

考えてみれば過去には風変わりなコミュニティにも所属していたように思う。

 

しかしどの場所にも希望はあった。

 

災厄が全て解き放たれたあとに、希望だけが中に残されたパンドラの箱という寓話がある*1

 

パンドラの箱の通俗的な解釈は「だから、人類に希望は残されている」というものである。一方で世の中には論理的にしっかりものごとを考えたい人たちもいて、彼らの解釈は「災厄の箱の中に入っていたのだから、希望も実は災厄なのだ」というものだ。

 

なるほど、災厄が詰まっている箱をパンドラの箱というのだから、その解釈は一見すると尤もらしく感じられる。しかしながら、本当に箱の中を全て災厄で揃えることは可能なのだろうか。ギリシャ神話の品質管理部門はどのような検査で災厄かどうかを判定したのだろうか。ノイズ無しの教師データを整えることは2値分類であっても極めて難しい。とりあえず災厄だということで売り出してみたら、あとから顧客が「ちょっと、これ災厄って書いてあるけどよく見たら希望じゃないですか、ヽ(`Д´)ノプンプン」と返品カウンターに列を作ったりはしていないだろうか。パンドラの箱のなかに入っていたのは「争いの女神エリス」や「夜の女神ニュクスの子供たち」だと言うから、むしろこの選別は人事の仕事に近かったのかもしれない。となると人事がリスク人材だけを100%採ることは現実的に可能なのだろうか…改めてこう考えてみると、すべてを災厄で揃えることは、むしろ極めて難しいことのように私には思える。

 

確率的な事象に対する世界観が浸透した21世紀にあっては、私たちは災厄一色の古典論とは別の解釈を取ることができるだろう。それは、悪い人たちが結構頑張っても希望は箱の中から取り除けなかったのだ、というものである。

 

エヴァンゲリオンでカヲルは「希望は残っているよ。どんな時にもね」と説く。村上春樹のデビュー作は「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」という一文から始まった。風刺作家Scott Adamsは失敗の平原の中には必ず成功が埋まっていると記した。自己啓発本Switchでは悲惨な生活環境の集団の中で良好な栄養状況を保っていることをBright Spotとかと呼んでいたように記憶している。このテーマは数々の場所で繰り返し多様に説かれ、そしておそらくは真実である。

 

 なにか新しい挑戦をすることは、パンドラの箱を開けるようなものである。ましてやその挑戦が必ずしも望んだものでなかったなら尚更だ。

 

しかし、希望は残っているよ、いつでもね。

我々には確率が味方している。

*1:希望じゃなくて予知だという説もあるがここでは採らない

書評:"How to Fail at Almost Everything and Still Win Big"


"How to fail at almost everything and still win big" という本を読んだ。

 

 

How to Fail at Almost Everything and Still Win Big: Kind of the Story of My Life

How to Fail at Almost Everything and Still Win Big: Kind of the Story of My Life

 

 

 

著者のスコット・アダムズは銀行員を8年勤めたあと電話会社で経理系の仕事を更に8年勤め、そして最後は専業の風刺漫画家になりほぼ億万長者暮らし、という特殊な経歴の持ち主だ。今年読んだ本の中でほぼ間違いなくベスト5に入るだろう。


まずこの本で最初に目を引くのは、Introductionに含まれる The Six Filters for Truth (真理に向かうための6つの情報源)という節だろう。エッセイにこんなイントロが入っている事自体が珍しく、著者が変わった本を書こうとしていることが伝わってくる。その6つとして個人経験、他人の経験談、専門家、科学的研究、常識、パターン認識が挙げられる。そのうえで著者はこう話す。

"In our messy, flawed lives, the nearest we can get to truth is consistency. Consistency is the bedrock of the scientific method. Scientists creep up on the truth by performing controlled experiments and attempting to observe consistent results. In your everyday, nonscientist life you do the same thing, but it's not as impressive, nor as reliable."

bedrock: 根本(原理)、基礎的事実、solid foundation
creep up: 徐々に上がる

(拙訳:私たちのごちゃごちゃしていて欠陥だらけの日常生活の中で、真理に最も近づくための原理は一貫性である。一貫性は科学的手法の根本原理だ。科学者たちは変数の統制された実験を繰り返して、一貫した結果を観察することで真実に徐々に上り詰めていく。日常生活の中でも、科学者でなくても同じことをする。実験ほど信用も感動もできないものだが)

 

"When seeking truth, your best bet is to look for confirmation on at least two of the dimensions I listed. For example, if a study indicates that eating nothing but chocolate cake is an excellent way to lose weight, but your friend who tries the diet just keeps getting fatter, you have two dimensions out of agreement. (Three if you count common sense.) That's a lack of consistency."

(拙訳:真実を探すとき、最善策は少なくとも私が上げた6つのうち2つで確認を取ることだろう。例えばある研究がチョコレートケーキだけを食べるのが減量するのに最適だと示したとする。でもあなたの友人がそれを試したら体重が増加するばかりだった。2つ(常識を入れれば3つ)の次元が一致していない。一貫性の欠如だ。)


経験談の著者は「これは自分の経験だから君に本当に役立つかは…」という注意書きを添えることが多い。上記の言明はその警告の一般化だと考えて良いだろう。

 

この6つを相互に監視させる思考原理こそが、著者がいかにして大卒出身者が一人もいないニューヨーク州の高校から、リストを眺めるだけでゾッとするほどの大量の失敗を重ねながら、およそ20年を経てそこそこの億万長者にまで上り詰めたのか、その基礎的な過程の一つになっているように読んでいて感じた。ちなみに著者は風刺作家であるだけあって、失敗談を非常に humorous に描いていて笑える。特に ニューヨークでブリザードに巻き込まれた話、大学をどう決めたかという話は非常に印象深いエピソードだった。

 

そしてこの consistency という考え方は、著者の他の主張も補強している。著者は Goals are for losers (ゴールは敗者のものだ)という主張を6章(Goals versus Systems)で行うが、これだけでは何を言いたいのか不明だ。だが consistency から考えると納得しやすい。彼にとっては、 goal という言葉が前提とする "nearly continuous failure that they hope will be temporary" -> achievement という基礎構造が、consistent に失敗するための構造に見えている。「個人経験」、「他人の経験談」がこれを補強し、「常識」がこれに逆らっているということだろう。2対1が単純すぎるというなら適当に係数をかければいい。

 

一方で彼は system の利点を説く。

"For our purposes, let's say a goal is a specific objective that you either achieve or don't sometime in the future. A system is something you do on a regular basis that increases your odds of happiness in the long run. If you do something every day, it's a system. If you're waiting to achieve it someday in the future, it's a goal."

(拙訳:この本の中では、ゴール(goal)とは将来いつかあなたが達成するかしないかする特定の目標だと定義することにしよう。システム(system)は、長期的に見て幸福になれる公算を高めるために、定期的にあなたが行う何かだ。毎日何かをするならそれはsystemだ。将来何かを成し遂げたいと思うならそれはgoalだ。)

 

"The system-versus-goals model can be applied to most human endeavours. In the world of dieting, losing twenty pound is a goal, but eating right is a system. In the exercise realm, running a marathon in under four hours is a goal, but exercising daily is a system. In business, making a million dollars is a goal, but being a serial entrepreneur is a system."

(拙訳:システム対ゴールという観念の模型は多くの活動にあてはまる。減量なら、9キロ痩せるのはゴールで、正しい食事を取るのはシステムだ。運動なら、マラソンでサブ4を達成するのがゴールで、日々運動するのがシステム。ビジネスなら、億万長者になるのがゴールで、連続起業家であり続けるのがシステムだ。)

 

"All I'm suggesting is that thinking of goals and systems as very different concepts has power. Goal-oriented people exist in a state of continuous presuccess failure at best, and permanent failure at worst if things never work out. Systems people succeed every time they apply their systems, in the sense that they did what they intended to do. The goals people are fighting the feeling of discouragement at each turn. The systems people are feeling good every time they apply their system."

(拙訳:私がおすすめしているのは、ゴールとシステムは非常に異なる概念なんだと考えることで、日々の活力を得ることだ。ゴールに拘る人は、上手く行ったとしても成功前は長いあいだ持続的な失敗の状態であり続け、失敗したらずっと敗者だ。システムを採用する人々は、そのシステムの活動をするたびに、狙ったことを達成したという意味では成功ということになる。ゴールを採用する人々は毎回の活動で嫌な気持ちと戦っている。システムを採用する人々は毎回の活動で良い気持ちを得ている。)

 

人間が前向きに生活を続けていく上では、幸せな感覚の総合時間よりも頻度のほうが大切だという話を聞いたことがあるが、この「成功するためのシステム」という世界観に通じるものがある。彼はその後の章で、各人が作った 「成功するためのsystem」 を運用し、改善するためにどのような論点があるか?を延べていく。その中でも Simplifiers (単純なシステムを好む人)である著者と Optimizers (最適なシステムを好む人)である著者の配偶者という対立は非常に面白かった。


この本とぜひ併読して読み返したいのは、村上春樹の『職業としての小説家』というエッセイである。 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

村上春樹は、人生の後半ほぼ全てを書けて「長編小説を書くためのシステム」を自身の生活様式として Optimize した人物である。同書中では村上が爆発的に売れる長編小説を立て続けに出すために、どのようにして「長編小説を書き上げるためのシステム」なるものを作り上げたのか、そしてそのシステムとやらは彼の中でどのような意味を持ったものなのかが語られる。彼は異常なまでに規則正しい生活を送っていることで有名だ。「システム」(村上の本では「ヴィークル」と呼ばれることが多い気がする)は村上の本ではほとんど唐突に登場するのに対し、How to fail...ではGoals versus Systemsの章で上述のようにかなり詳細に定義されて登場する。面白いのは、僕が『職業としての小説家』を読んで感じていた疑問、「システム」に関する疑問をHow to fail...の定義の章が氷解してくれたことだ。村上も元はジャズ喫茶店長を長く勤めていたところから最終的に専業作家になったという経歴を持つが、これらの本は成功率の低いアート系の職業でいかに成功するかについて示唆を与えるだろう。How to fail...のほうでは成功率の低い職業を起業まで広げて書いている。

 


さて引用から離れて総感を書く。あまり上手く言葉にできないのだが、「世界のどこで何をしている無名の人でも、学歴関係なしにたまに「この人は人として見事だ」と思うような感覚を抱く人が存在する。彼らは何故そうなれたのか?」というのが僕の気になっていたことだ。

 

無名であればあるほど、「勝ち組」のネットワークや資源(クローズドコミュニティや東京を思い浮かべてもらえればよい)からは遠ざかり、目の前にある2流の資源やネットワークで何とかするしかなくなる。しかしそれらの資源の使い方がかくも見事で、また小さな挫折の10や20では怯まず、辛抱強く成功に結びつける。ネットワークと資源に正の係数を付けた単純な線形回帰モデルでは説明できない、これらの「しぶとい」人たちは、一体何を考えているのか?というところだった。

 

著者スコット・アダムズはそのような人の一例だったように思う。特徴としては、optimisticであること、自己の知識を確固として認識していること(たとえ科学的知識と異なる場合であっても -- これは途中の章で説明される)、特定の良い習慣が身についており緩まないこと、多くの新しいことを試すこと、他人と自分を比較することが滅多にないことなどだろう。本書は、その思考が垣間見られる良書だった。

意志決定、正解、学習

Facebookの創設者による母校でのスピーチを読み、映像を見た。日本語訳はこちら

 

平易な言葉で語られているが、ティールと一緒でかなりコンテキストなスピーチであり、また読み返したいと思う。

 

その中でひとつ印象に残る一節があった。

 

It's good to be idealistic. But be prepared to be misunderstood. Anyone working on a big vision will get called crazy, even if you end up right. Anyone working on a complex problem will get blamed for not fully understanding the challenge, even though it's impossible to know everything upfront. Anyone taking initiative will get criticized for moving too fast, because there's always someone who wants to slow you down.

In our society, we often don't do big things because we're so afraid of making mistakes that we ignore all the things wrong today if we do nothing. The reality is, anything we do will have issues in the future. But that can't keep us from starting.

 

(拙訳:高い理想を掲げることはよいことだ。でも、他の人にはその理想は理解されないと覚悟していてくれ。他人は、大きな構想を抱いて何かに取り組む人のことを「狂っている」と評価する。たとえ最後に君のほうが正しかったと判明する場合でもだ。複雑な問題に取り組めば「問題全体を理解してもいないくせに」と批判される。たとえすべてを事前に知っているなんて到底不可能であってもだ。率先して何かを行えば早急に過ぎると批判される。いつも誰か、あなたの歩みを遅めようとする人がいるからだ。

 

私たちの社会では、たいてい誰も大きなことに取り組まない。失敗を犯すのが怖すぎて、何もしない。今の制度が何か間違っていると分かっているのに、無視をしようとする。本当のことを教えてあげよう。何をしても失敗なんだ、未来に何か課題を残すという意味においては。だけど、だからといって始めないわけにはいかない。

 

 

 

僕は、なぜか知らないが、高校あたりからやたらと失敗を恐れるようになった気がする。まず先生や指導者、助言者、保護者、有識者の意見を聞き、それらから外れることを極端に怖がっている。それは、彼らが正しく、僕が間違いうるという、そういう図式で余りにも長く学びすぎたからなのかもしれない。もしくは、aloneであるから、怖いというそれだけなのかもしれない。たとえ自分の方が正しいような気がしても、怖くて有識者の勧めを選んだという経験が思い当たる(それが上手くいってしまったりするから更に難しい)。

 

そして、不確実な複数の選択肢から1つを選ぶことを、極端に嫌っている。だから「確実」でたった1つしかないように見える、「現状維持」を続けようとする。選択肢から1つを選んだ場合でも、選ばなかった選択肢の気づかなかったメリットや後から追加されたメリットを聞くたびに、心臓が跳ね上がる。頼むからこれが正解であってくれ、と願う自分をそこに発見する。

 

 

未来になってしか確定しないことは多い。自分が予約しようか迷っている2つのレストランのうちどちらが数日後まで残っているかなんて、いくら調べても分からない。どの事象も確率分布する。レストランじゃなくて転職先でもいい。転勤先でもいい。「君が選んだのは正解じゃなかった」と証拠付きで主張するのは、とんでもなく簡単なタスクだ。だってどれも、課題を残さないという点では正解じゃない。転職先Aでは人間関係が問題になり、Bではキャリアパスが問題になり…そういうことが怖くて、いつまでも調べ続ける。でも実際にはもう分かっているのだ。調査では未来は確定しないことを。ただ、可能性の大小を不確実に狭めて、実利益の代わりに期待利益を上げているだけである。期待利益なので、事後リターンも期待値として計算するのが合理的だろう。1つ2つダメな結果に繋がったぐらいでは実は問題は起きていない。人生において学習とは、各問題領域(育児、家事、職業)におけるその時間効率と、「打ち切り」の上手さを鍛えることも含まれていることに気づいたのは、いつだっただろうか。

 

期待利益で判断し、事後期待利益で自分の判断を評価するのは、とても大事な思考の癖のように僕には思える。どの選択肢も結果の課題量がゼロでないという意味で正解のない世界で、我々は数量化できないものを意志決定していく。

自動販売機と同調圧力

日本とアメリカは大きく異なる点がいくつかあるが、今日はその中でも一見ささいな、しかし象徴的な点を取り上げてみたい。

 

それは自動販売機である。

 

日本における自動販売機は、当たり前のことだが全てきちんと合理的に動く。

 

アメリカの自動販売機はそうではない。

全体の自動販売機のうち、ごく1割ほどが合理的に動く。

 

たとえば、1ドルの清涼飲料缶を買うことを考えてみる。

 

小銭がないからと20ドル札を入れて1ドルの商品を買うと、5ドル紙幣3枚と1ドル硬貨4つを返すそこそこ合理的な自動販売機もあれば、全て1ドル硬貨で返す自動販売機もある(紙幣がないわけではなく、紙幣で返す機能がない)。19個の硬貨がカチャン、カチャン、カチャン、カチャン…と釣り銭入れに溜まっていく様子を最初に見たときは衝撃的だった。

 

19ドルぶんの硬貨はそれだけで財布が超パンパンになるが、それでも20ドル札を使えるだけ有難くて、そもそも大抵の自販機は1ドル紙幣か5ドル紙幣しか受け付けない。20ドル紙幣しかない場合は、友達に両替してもらうか、近くの20ドル紙幣を受け付ける自販機で少額を消費して崩すしかない。

 

そして、都合よく1ドル硬貨を持っていて、きちんと投入したからと言って気を抜いてはいけない。僕のこれまでの経験上、自販機は4%ほどの確率で壊れている

 

壊れ方も一様ではなくて、商品を取り出すアームが正常に作動しないもの(VENDING ERRORと表示され返金される)、入れたコインが認識されずそのまま釣り銭として返却されてしまうもの、釣り銭として返却されないのにカウントされないもの(修理業者に連絡してrefundを請求するしかない)、

 

そして極めつけは、商品を支えるアームが動き出して、商品が取り出し口に向かって落ちていく、その局面に達してもまだ安心してはいけない。

 

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私はこの短い滞在期間に、これをそれぞれ別の自販機で2回目撃したのだ。

(商品が、アクリルとプラスチックフレームの隙間に挟まってそれ以上落ちてこない)

 

 

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さて、この自動販売機の話は、これだけで判断すると、まるでアメリカの製造業を批判しているように聞こえるかもしれないが、私の本意はそこではない。自販機の統合テストすらきちんとできんのかアホかと言うのは簡単だが、これはむしろ文化的な現象と捉えたほうが大枠が見えてくる、と思う。

 

なぜなら、自動販売機に限らず、こっちはなんでも壊れているのだ。ジムのシャワーは3分の1は水が出ない。トイレを流すスイッチは不定期に動作不良を起こす(なので、こちらに来てから入ったあとに流れるか確認する癖が付いた)。路上のトラックでホットコーヒーとパンを頼むと、パンだけ提供されることもしょっちゅうだ。電車は急に「ごめん今日は休むわ」とかで動かない。

 

これは技術的な統合テストの話ではない。もっと深いところに根ざす現象だ。

 

話は変わって、友人2人(留学で来た中国人と、ずっとこっちに住んでいる中国系アメリカ人)と昼食を囲んでいる時に、中国人が「自分はこんど子を授かるが、こちらの学生たちはほんとうにみんなユニークに見える。どうやって子どもをユニークに育てているのだ?」とアメリカ人に質問していた。アジア人の両親に厳しく育てられた彼女は、

 

「いや、ユニークに育てているとかなくて、単にアジアと違って同じにしようとしないだけだよ」

 

と答えていた。その答えに彼は大変納得したようであり、僕の中でも個性豊かな自動販売と繋がるものがあった。

 

 

自動販売機がそれだけ多彩なカスタマー・エクスペリエンスを提供している状況にあっても、どうして日本のように全て合理的に動く段階には移行しないのか。

 

それは、こちらの人はみな「同じでない」ことに慣れているから、「同じようには動かない」ことが普通だと思っており、そこにわざわざ改善が必要だと思わないからである。

 

もちろん彼ら彼女らも、自分の金が吸い込まれてしかもモノが買えないとなればクレームを付ける。ただし、19ドルの硬貨を返す自販機に文句をつけるかというと、たぶん付けない人のほうが多い。僕が予想するに「えっ、だって全額返ってきたじゃん、何が問題なの」とキョトンとされるのが山だろう。「えーっ、そんな細かいこと気にするの、へー面白いね」ぐらいのコメントが返ってくるかもしれない。

 

彼らは学生のプログラムが謎の中間メッセージを出力しても気にせず採点するし、細かく聴くと3から10ぐらいの特殊ケースを扱っていても、「全部問題なく終わったよ」と一言だけ言って終わったりする。

 

彼らにとっては、何もかもが異質であることが当たり前で、それが自動販売機であろうが、他人であろうが、プログラムであろうが、キャリアであろうが、食事であろうが、異質であることが同一なのだ。

 

 

この成功例が個性豊かかつ優秀なトップスクールの学部生たちであり、失敗例(日本人からすると、か?)が自動販売機である。

 

ちなみに副作用として…僕は未だに英語がまともに話せない&聞き取れない(何度も聞き返す)ので、友人と気軽に話している際ですら大変心苦しいと思っていたのだが、彼ら彼女らの様子を見ているにたぶん英語が得意とか不得意とか、気にしていない(どちらも真剣に聞いている)。彼ら、彼女らにとっては自動販売機が返す19ドル分の硬貨みたいな程度の不快感に過ぎないのだろう。ここらへんは人間的な深さであるなあと友人たちを見て思う。