蛍光ペンの交差点[別館]

"どの点に関心をもつべきか ―をわれわれが学びとるのは,もっぱら仮説からだけである"

完全な意志決定など待ってられるか、あるいは意志への満足

自分の人生をふと振り返ってみると、数年間隔で「その後の人生を大きく変えるような決断」をいくつか重ねてきたことに気付く。

 

同時に驚かされるのは、そのどれに関しても、とても誇れるような決断の仕方ではなかったということだ。ある決断は見栄や私利に、また別の決断は選択肢の不在や直観に、あるいはたまたまの機会に大きく影響されて行なったものだったりする。

 

後輩に進路相談されることもあるから、もちろん「AとBとCというメリットを考えてこの選択肢を選んだんだよ」と一息五秒、自然な筋立てに整形して話すことはできるのだが、しかし本当は違う。決断前の時点ではメリットを並び立てられるほど未来は明確に想像できない。どのメリットも不確定要素によって遮断されうる。言葉にしようとすると、それが実現するための前提が多すぎて、説明がとても長くなる。

 

何を責めるべきだろうか?複雑過ぎる現実か?それを超克できない自己か?いや本当に責めるべきは、最善な意思決定は机上の合理性で達成できると考える、僕のなかの素朴過ぎる固定観念ではないだろうか。

 

本当のところは、何が原理となって良い選択になるのか、あまりよく分かっていないのだ。決断したあとそれを成功に持っていく遂行力、細かな軌道修正でマリオのコインよろしくアップサイドを狙う抜け目のなさ、期待値を予め下げておくことによる成長感、いくつかほぼ断言できる選択肢間の不等式を見逃さない審美眼、などなど。

 

決断後は、情報がとても増える。自分が描いていた白地図に、より正確に物質が嵌め込まれていく。それで満ち足りた気分になれるくらい、今に熱中できる性格だからかもしれない。