蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

運命に告げたさよなら

生きていれば人はいろいろなものにさよならを言うだろう。

 

子供のころに飼っていたペット、転校していった仲のいい友人、疎遠になった文通相手、ボロボロになったお気に入りの筆箱、長年通った習い事の先生、届かなかった部活動の勝利、お世話になった地域のおじいちゃん、片思いに終わった相手、学生時代を過ごした寮、そりのあわなかった知人、自分を苦しめた親知らず、苦境から救ってくれた制度、毎日乗って通学した自転車、改修されて消える駅のホーム。

 

それぞれに鈍い痛みをもたらすわけではあるが、
運命にさよならを言うのは別格だった。

 

数十年ずっと自分を規定していたものを捨てる。何百人の予想を裏切るのか。そもそも自分に選ぶ権利などあるのか。自分を自分の手で殺したような後味の悪い体験。

 

若いころに耳にしたことばというのは、パレットに最初に乗せてしまった絵の具のようにいつまでも心に残って影響力を持ち続け、僕のそれは予備校講師が言っていた。「自分で決めたのだったら、その先が地獄だろうとなんだろうと、納得できるよ」。それから10年ほどが経って、僕はまだその言葉を忘れずにいる。

 

重大な決断をするとき、僕はふつう親密な友人や信頼できる恩師に相談する。だけれど今回は、自分で決めたいと思ったから誰にも相談しなかった。誰かが言っていた。自分を長い間偽っていると、いつのまにか自分の本当の声も分からなくなってしまうと。僕は別に気づいていない論点を指摘してほしいわけでもない。冷静な頭に整理してほしいわけでもない。背中を押してほしいわけでもない。僕はただ知りたかった。もし恐れがなかったら、僕はいま何をするだろう?そうやって何晩も考えた。

 

天秤にかけられたのは、要するに過去と未来である。過去には、夥しい数の糸や絆が張り巡らされている。麻糸や、鋼線で繋がれたものもある。不自由で、個人と呼べないような存在だ。一方で未来は、糸の数も姿も頼りない。誰が助けてくれるのかもはっきりせず、社会の塵となって消えても不思議ではない。ただ一つ未来のいい点は、それが誰の決めたものでもない、僕のものだということだ。そちら側にあるのは自律した決定主体としての個人であり、書き込むだけの余白を備えた自由な存在であるように見えた。

 

喪失感は半端ではない。正直、人生を生きる上での目標を失ったような感覚が続いていて、いまいちどうしたら良いのかが掴めない。いまはとりあえず幕間なのだと考えるようにしている。第一幕だか第二幕だかがこれで終わったのだ。ここで脚本家が変わり、大河ドラマから近未来サイバーSF作品になります、というわけだ。この先には何も書かれていない。それならば好きに生きて、意志が僕の今後をどう変えたのか、少しずつ立て直しながら眺めてみようと思う。Brexitが起きて、トランプ大統領が当選するような予想のつかない現代で、自分でも想定外なこの決定が、どういう第二の運命をもたらすのかを。最後に、僕の好きな随筆の一節でも置いておこう。

 

 

わたしの第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。この点でわたしは、どこかの森のなかで道に迷った旅人にならった。旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一カ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。

...

そしてこれ以来わたしはこの格率によって、あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち、良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから、解放されたのである。

 

(ルネ・デカルト方法序説』、谷川多佳子訳)