蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

正論とプロセス

まさにその職務に最適としか思えない人が、正論を展開する様子を見ていた。

 

正論を展開する。

正論を展開する。

正論を展開する。

 

…。

 

おかしい。終わらない。

 

言及されていることは、あとで別の情報源から確認したところ恐らくどれも真実で、解決すべき課題であることは間違いない。

 

ただ、そこに全面的には協力する気が起きないのは何故だろう、
価値があることだと思うのに、どうして僕にはそれを遂行する気が起きないのだろう、
とその正論を聞きながらずっと考えていた。

 

たとえば「世界平和は良いことだ」という命題を考える。

正論である。

 

ただ、ではこれを実現するために協力して下さい、と言われたとき、人はどう行動するだろうか。私財を投げ打って活動に身を捧げる?年収の十数パーセントを寄附することにする?非正規雇用が4割を超える時代に?数ヶ月に一度開催される活動に参加する?「僕は、土日もクライアントから連絡が来ることがあるので、参加が難しいのですが…」それだったら公式Webサイトに協賛していると写真を載せてもらう?会社の関係で難しい、なるほど。ならば署名活動に協力する?世界平和の達成まで、どれくらい遠くなっただろうか?

 

近かったものが遠くなったわけではない。
もとから遠いものが、より正しく見積もれるようになっただけのことだ。

 

 

利害関係というと、人は真っ向から対立する二者を考える。でもそれとは別に問題になるのは、それらの片方に共感できるけれど、何かのこまかな、ある種の利己的な利害が対立していて動けない人達なのだ。飲み会だから別の話もしたい、イベントの時期だからその打合せが必要、他にミッションを持って仲間を探している段階だから耳に入らない、そういう人達を説得しなければならないのだ。

 

自分にだって展開したい正論はある。
ただ、その正しさよりもプロセスが気にかかるようになった。

一読すべき企業分析がここにある:『進め!!ブラック企業探偵団』書評

 

進め!! 東大ブラック企業探偵団

進め!! 東大ブラック企業探偵団

 

 

 

この本は、就活本として異色である。

だが就活生に限らず、既に働いている社会人にとっても読む価値があると思う。

 

それは、この本で取り上げられている4つの業界、すなわち、外食・メディア・製造業・金融業界に所属する企業群の分析水準が、ケタ違いに高いからである。

 

それぞれの業界の性質を、どう考えても一人の学生では決して辿りつけないであろうレベルの深さまで分析している。ごく平均的な就活生やビジネスマンを想定した場合、いやそれどころか、相当に企業を研究したプロ就活生や、かなり優秀なビジネスマンであっても、この水準のレベルの理解を、これだけバラバラの業界4つに対して持っていることは考えにくい。メディアを受けるようなキラキラ学生は外食を受けないし、製造業に興味を持つような理系学生は金融やメディアをそこまで理解しない。

 

「外食の勝ち組」や「横浜DeNAベイスターズ」、「BtoB」や「ゴールドマン・サックス」をこの水準で語れる人はめったに居ない。というか私は出会ったことがない。

 

 

どういうことだ?

著者・大熊将八は身長がやたら高いだけのただの大学生ではないのか?

経済学部生といえど、なぜここまで質の高い分析が可能なのか?

 

私にはこの本が、まるで認識のサラダボウルであるように思えた。どう考えても一人の人間の経験ではこれは書けない。いったいどういう仕掛けによって、このような質の高い分析が成立しているのか。

 

その理由の片鱗が見えたのは、著者のインタビューを読んでいたときだった。

  

ーーNewsPicksで連載してみて、良かったことは何ですか?

大熊:コメントを頂き、そのフィードバックから改善ができることですね。書籍作りのフローに、テストマーケティングのフェーズを入れることができるんです。まさに、クラウドファンディングに近いやり方です。例えば外食産業について書くと実際に外食産業で働いている人からコメントを貰えたり、どういう層が反応するのかがわかったり、そのフィードバックをもとに原稿の書き直しができると。これが外食、メディア、電機、銀行の各業界の人が間違っているところを指摘してくれたり、裏話を教えてくれたり、すごくありがたかっったです。

ーーでは、書籍化にあたって、かなり書き直しもされたんですね。

大熊:ほとんど全部直しましたね。

( 東大・京大の書籍部で1位! 現役東大生が、書籍『進め‼︎東大ブラック企業探偵団』に込めた思い | co-media [コメディア]  2016年3月4日閲覧)

 

ネット連載を本にまとめている。

そう、この本はそもそも「初版からして第2版」なのである。

 

NewsPicksというネットメディアで一度テスト飛行をする。そのとき、企業の内情にアクセスが難しい学生ならではの表記ミスや理解不足に対して、NewsPicksの読者である業界人からの「あのときはこうじゃった…あのときもこうじゃった」的な情報が飛び交う。書籍の著者はふつう編集者に校閲を頼むことが多いが、こうして間接的に業界人から情報内容に関する修正が届く。

 

NewsPicksは極めて特異なメディアで、コメントの投稿者が自分の職業を肩書として載せていることが多い。そのため、本当にその業界に詳しい人か実に簡単に判別することができる。良いコメントにはLikeが付き承認欲求が満たされるため、コメントの投稿者は他の「非・業界人」にはできないような発言をするインセンティブが揃っている。

 

つまりこの本は、学生が公開情報に基いて書いているにも関わらず、独自の成立過程によって企業の内実をつぶさに・かつ正確に知ることができる貴重な書籍なのである。

(ちなみにNewsPicksの連載は有料会員のみしか見られないため、投稿者の出自も保証されている。当時の投稿は現在はもう閲覧できない)

 

 

 

そして、ここからは私の勝手な推測である。

 

同書の第2章ではテレビやネットなどのメディア業界を扱うのだが、その中で「テレビドラマが映画よりも優れている点」の1つとして、毎週放送するという連載の形式を取れるために、視聴者の反応を見ながら後半の話の展開や話数を調整できるという点が挙げられている。またテレビ業界が未だに利益を出すために用いている手法としてDVDによる放映内容のリパッケージングが挙げられている。

 

もうお分かりだろう。

 

これらの手法は、NewsPicksというコメント可能なメディアで連載して、修正後に書籍というまとまった形で提供するという、この本の成立過程そのままなのだ。

 

 

言い換えれば、この本は、企業分析の知見に基いて製作プロセスのベストプラクティスを採用した点においても異色なのだ。本に書いてあることが、その本自体の製作に活かされている。ここまで知識獲得と実践が融合しているケースは珍しい。著者自身が分析内容を実践しているわけである。

 

加えて、巻末のプロフィールにも言及があるが、著者は米国メディア取材を題材としたクラウドファンディングの対価として、寄付者に対する個人的な関係構築を積極的に行なっているようだ。これも私の邪推だが、その過程でメディア系の業界人に対してコネクションを作ったのではないか。

 

一読しただけでこれだけ精密な戦略が張り巡らされているということは、私がまだ気づいていないような仕掛けもおそらくたくさん存在するのだろう。そのような結果として、極めて特異な水準の分析を行なっている本書があるのだと思われる。

 

 

そして以上の観点から見ると、著者は興味深い発言をTwitter上に残している。

 

 

 

このツイートで述べられている「公開情報」が示している対象に注意したい。

ふつうに「公開情報」と聞くと、ネットで少し調べれば出てくるような情報のことを一般的には想像するが、著者にとっては業界人からの裏話的な反応も、企業分析を更に推し進める上での「公開情報」に含まれるということだろう。

 

このような発想で「公開されている情報」を考えることは、少なくとも就活生にとっては糧となるだろう。この『東大ブラック企業探偵団』は、日本における企業の勝ち組・負け組を考える上での材料の一つに過ぎない。

 

就活が近い後輩にこの本を薦めているが、本書を読み通したとき、その子が日々の就活説明会やOB訪問、そしてコネと呼ばれるものの可能性について、どのように認識を変えるかが気になるところである。

 

 

 

進め!! 東大ブラック企業探偵団

進め!! 東大ブラック企業探偵団

 

 

(ちなみに余談だが、Amazonのレビューだと「表紙の女の子(マオ)はかわいいが、狙いすぎてて社会人としては引く」と言った発言が見られたが、私は最近たまたま関わっているプロジェクトのチームメンバーに、このマオに実に似ている女子学生が居たため、まるで彼女が喋っているような奇妙な感覚を受けながら読んだ。あまりに気になったため著者に問い合わせたが、そもそもその子と面識はなく無関係らしい)

 

 

あなたはどうあんぱんを買うか:問題解決のケーススタディ

 

「おーい、あんぱん買ってきてー」

 

  • 広告代理店のAくんの場合:
    (生協の購買部に着いて)「うーん、この棚は取れてないか。仕方ない、別の店を探そう」

  • 大手ネットベンチャーのBさんの場合:
    「まずメンバー全員のスケジュールをシェアして公平にアサインしよっか」

  • 気遣いができるCちゃんの場合:
    「飲み物も買ってきました。麦茶と烏龍茶どっちにしますか?」

  • きちんとタスクはこなせるのに声が小さいDくん:
    つぶあんとこしあん両方買ってきました…

  • 幹部候補採用のEくんの場合:
    「私、駄菓子は食べないので」

  • コンサルのFくんの場合:
    「つぶあんか、こしあんか。答えはその間にあります」

  • 院進を決めたGくんの場合:
    「俺はクリームパンがいい」

  • 起業家のHくんの場合:
    「もうすぐ昼ごはんだし俺が作ろうか?」

  • 公衆衛生学者志望のIくんの場合:
    「菓子パンが体にいいなんてエビデンスはないんだけどなぁー、」

  • 体育会系出身のゴツいJくんの場合:
    「30コ買ってきました」

  • エンジニア志望のKくんの場合:
    「あんぱんを注文できるアプリ作りました。
        クリームパン?クリームパンは仕様にないので注文できません」

  • バイサイドアナリストのLくんの場合:
    「なるほど、人件費無料で食材を調達できる…めっちゃいい、めっちゃいい」

  • 漫才好きのMくんの場合::
    「あんぱん買いに行かせるとか、お前は漫画かって話ですよ」

  • 小説家志望のOくんの場合:
    「あんぱんを買いに行く、難しいタスクだよね。でも能力ではなく可能性を信じる」

  • 数学者のPくんの場合:
    位相幾何学的にはあんぱんとクリームパンは同じなので、クリームパン買ってきました」
  • あんぱんを買いに行くと見せかけてサークルに勧誘してくるQくんの場合:
    「このあんぱん1つ取っても、包装の色をどうするかだとか、あんぱんの直径サイズをどうするかとか、いろんな意思決定があった上で僕たち消費者のもとに届いているんですよ。そしてそういう企業の意思決定の方法を学ぶことが、自分の人生を自分で切り開いていくうえでまたとない経験の機会になるんだよね。そういうことをしているサークルがこの大学にもあるんだけど、知ってる?」

  • 経済雑誌記者のRくんの場合:
    「普通に買えばいいだろ!」

アルゴリズムはどのように何をしたいのか:豊かさについて

 

アルゴリズムとは、機械にも実行可能なぐらい明確に表現された作業手順のことである。その手順さえ実行すれば、目的とする何かが達成される。

その目的は、「病院の待合室で待っている人のうち、次に診察室に呼ぶ人を決めること」だったり、「布団 クリーニング とGoogle検索した人の検索結果の広告枠に表示させる広告を決めること(たいていはネットクリーニング屋が出てくる)」だったりする。あるいはもっと基礎的なアルゴリズムならば「与えられた記号列(プログラムなど)の意味が一意に定まるか」だったり「特定の値を最大にするように、いくつかの数値の値を変えること」だったりする。

 

これらのアルゴリズムは、どのように目的を達成したいのだろう?

 

たとえば、面積や築年数などの物件情報から、家賃価格を知りたい場合を考えてみる。ひとつの方法としては、日本国内のすべての物件情報を登録しておいて、「面積」と「築年数」を入力したときに、それらの家賃価格の表を返すようなデータベースを作ればいい(データベースによる方法)。別の方法としては、それらの物件情報をひとつの関数fで表すようにして、面積と築年数を入れると関数値として家賃価格(もしくは家賃価格の分布など)を返すようにすればいい(統計学機械学習による方法)。

 

この2つの方法は、一見するとどちらも「家賃価格を知る」という問題をエレガントに解決しているように思える。
でも、その裏ではいったい何を犠牲にしているだろう?

 

まず、データベースによる方法では、探したい物件情報に符合する物件が記録されていなければ何も結果を返さないという問題がある。東京ドーム22コぶんの大きさのマンションに住みたいです、はいありません、となってしまう。加えて、空間効率も最悪である。全ての物件情報をもれなく残しておかなければいけないから、テラバイトとかペタバイトレベルの記憶容量が必要となりうる。統計学機械学習による方法の「数式1つだけ(1キロバイトも行かないだろう)」と比べたら歴然である。このようなデータベースでは128ギガバイトしか容量のないiPhoneに入れることはできないし、IoTのこの時代では家電に入れることもできない。

 

一方で統計学機械学習による方法では、一度見たことのある物件でも正しい値を返さない(正しく暗記していない)という信頼性の薄さが問題となる。たとえば線形回帰モデルと呼ばれる数式では、一つの物件情報に対して1つの平均値しか保存されない。だから面積30平方メートルで10万円の物件と12万円の物件があった時点で、それらの価格を寸分違わず出すことはできない。たった2つあっただけでダメなのである。これはデータベースによる方法とまるで異なる問題点だ。ただし、データベースと違って、見たことのない物件についてもそれっぽい家賃価格を算出できることは大きなメリットだと言える。

 

こうなってくると、一つの疑問が生じる。

どうして併用しないのか?

 

たとえば、家賃価格を調べたいなら、まずはデータベースで検索してみて符号したらその結果一覧を返す、符号しなかったら数式による予測値を返す、という風にすれば、お互いの問題を解決したことになる。しかし今日も世界のどこかではデータベースはデータベースの授業として、機械学習機械学習の授業として別個に扱われる。少年は線形モデルを正しく理解したことに満足して何が犠牲になったか考えるに至らない。

 

 

アルゴリズムは機械に指示できるほど明確に表現できる。でもアルゴリズムを使うその手順は混沌としていて、それほど明確にはならない。ほんとうのところ私たちは、山程あるアルゴリズムを使って何をしたいのだろうか?

 

行き着いた結論のひとつは、有用性のある情報の抽出である。現実世界の要約とも言い換えられる。

 

データベースによる検索結果も、数式による予測結果も、つまるところ参考資料に過ぎない。何かをする上で役立ちそうな結果を弾き出している。日本全国の物件情報を読むことは一生かかってもできそうにないが、自分が探している物件情報と平米と築年数が等しい物件なら数千程度だろう。数式による予測結果が平均値ならば、平均値から明らかに乖離した物件を見つける物差しになるだろう。前者では自分が興味のある情報だけの提示、後者では有用性のある情報の抽出が行われている。

 

要約が目的になることはなく、それは単なるツールに過ぎない。それらが個別に取り扱われるのは、あまりに細部が込み入っていて短時間では統合するまで至らないだけであって、ツールとしての立ち位置には何の違いもない。

 

最後に一つ考えてみたい疑問がある。

人間がここまで計算機として優秀な理由は何故だろう?

 

私たちは、いまプログラムでやられているようなことをかつて仕事にしていた。古代は奴隷が政治家に付き添って、面会者の身辺情報を面会前に復習させることを仕事にしていたらしい。今はこの仕事は名刺管理アプリや顔認識、フェイスブックの個人ページなどが担っている。現在でも各種の新技術の登場で仕事が奪われるとかいった話題が紙面を賑わしている。

 

私たちは定型業務をしながら、しかし新しいことについて学習をしていく。
記憶を大事に大事に扱いながらも、推論や経験の中から自身の能力を変化させていく。

起動時間が長く、コンピュータのHDDの寿命が4年程度であるのに対して、約80年は稼働する。20数年ほどで生物としての基礎能力はおよそ開花し、あとは経験のなかから能力の適応の仕方や組み合わせ方を学んでいく。体調や感情があり、乱数には難しい偶発的な事象を引き起こす。イノベーションがそこから生まれることもある。

 

矛盾した言動や感情を持つことができる。非論理的な事項に直面しても処理が停止しない。多様な嗜好性があり、70億インスタンスが並列に作業している。

 

総じて、人間は豊かである。

 

アルゴリズムは、人間の豊かな部分のごくごく一部のサブセットをいま明確に表現された手順として体現しようとしている。それらを組み合わせることで、人間とはまた一味異なった「凝縮された」豊かさを実現しようとしている。それらはデータベースと数式の組み合わせが〜などとごくごく基礎的な論点が扱われているようにまだまだ黎明期であるが、これはこれとして興味深い。いままで歴史上人間がここまで、明確な手順として自分たちのできることを述べたことはなかったと思われるからである。

プログラムと恐怖

プログラミングを始めて約3年が経ち、少し考えることがあった。

 

学ぶことが本質的に困難なプログラミングとは、どのようなものだろう?
あるいは、いつまでも怖いプログラミングは、どのようなものだろう?


プログラミングを習うというと、以下のようなことがパッと連想される。

  • RubyPythonといった初学者にもわかりやすい(?)言語
  • CやC++と言った比較的わかりにくい言語
  • RailsSwiftなどによるアプリ開発
  • プログラマやエンジニアになるつもりじゃないから、彼らに仕事頼めるぐらい理解できればよい」という発言と認識

 

今回は、自分が始めた頃には思いもよらなかった「怖い(難しい)プログラミング」について考えてみたい。

それは「設定ファイル」のプログラミングである。

 

プログラマは日々の作業のなかで、いろいろな道具を用いる。そして、それらの道具の細かな使い方を毎回いちいち指定するのは煩雑でミスが起こりやすいため、設定ファイルと呼ばれる特殊なファイルに予め指示を書いておくことが多い。

 

たとえば、オペレーティングシステムと私達ユーザーの仲介を行なうプログラムであるbashならば .bashrc (正式な読み方は知らないが、私は「ドット・バッシュ・アールシー」と呼んでいる)というファイル、遠隔のコンピュータにアクセスするためのコマンドの一つであるsshならば ssh_config (「エスエスエイチ・コンフィグ」)と呼ばれる設定ファイルを操作する。

 

これらの設定ファイル内での指示の書き方は、共通していない。たとえば .bashrc で変数を宣言するときは変数名と値の間に空白を入れないことが求められるが、ssh_configでは変数名と値の間に空白を入れることが求められる。プログラマは新しい道具をひとつ使おう(細かく使い込もう)とするたび、それらの文法を覚える必要に迫られる。

 

最近では .yml や .json という拡張子のファイルで、ある程度共通のフォーマットで書けるようになりつつある印象も受けるが、真に問題なのは書き方というより間違いの見つけ方である。

 

どういうことか。

 

RubyPython、あるいはCやC++と呼ばれるプログラミング言語では、文法上のミスがあるとそもそも実行される前にエラーを出して止まることが多い。変数が存在しませんだとかカッコが閉じていませんだとか言った類のものである。プログラマは多くの場合、これらのエラーを手掛りに、プログラムを修正して正しく動くようにする。

 

「エラーを手掛りに」というのがポイントで、設定ファイルにおいては、あるいはエラーの種類によっては、手掛りになるようなエラーの文言が表示されないことが多い

 

「初心者だけが間違えるようなミス」であれば、それほど問題はない。ググれば同じ問題に直面している人がいるから、その通りに修正すれば大抵直る。

 

問題は、「プログラミング自体は普通にできる人だったとしても、そのエラー自体に詳しくなければ防げないタイプの不具合」である。

 

たとえばsshであれば、アクセス先のコンピュータが(セキュリティ強化のため)デフォルトの22番ポートではなく他のポート(仮に20022番とする)での接続のみ受け付けるようにしていた場合、connection refused エラーが起きる。このエラーを見たプログラマは、だいたい次のような思考を巡らせる。

 

  1. ポート番号が間違っているのか?
  2. パスワード認証がオフになっているのか?
  3. 秘密鍵ファイルが ~/.ssh/ ディレクトリ以下に存在していないのか?
  4. それとも、存在はしていても、デフォルト名ではない鍵ファイルとして保存されているから、鍵名を指定する必要があるのか?
  5. プロキシか何かの関係で接続が阻害されているのか?
  6. それとも、アクセス先のファイヤーウォールで弾かれているのではないか?
  7. ほかに何か、自分の知らない技術的な理由でアクセスができないのか?そうだとしたら誰に聞けばよいのか?ネットの掲示板か?それとも社内システムなら、前任の担当者か?

 

このうち、アクセス成功にたどり着ける「正しい」試行錯誤は、1. のみである。そして仮に 6. から逆番号順に試行錯誤していった場合、相当な時間をかけなければ 1. の正解まで辿りつけない。

 

実際には、鍵が存在しないときのエラーは確か public key denied か何かであり、すなわち connection refused ではなかった気がするので、ポート番号から考えることができるかもしれない。では正解が 1. ではなく 5. だったら?あるいは 6. だったら?プロキシ環境下に ssh でアクセスする機会や、ファイヤーウォールによる弾かれ方(とそれによるエラーメッセージ)を「拝見できる」「貴重な」機会はそうそうあるものではない。少なくともRubyPythonでエラーを見る頻度と比べたら2ケタ以上の回数差で珍しいのではないか。

 

だから僕は、設定ファイルのプログラミングをすることがものすごく怖い。

 

極端なことを言えば、たとえばsshでアクセスするようなマシンを100台立てて、それらの環境をそれぞれ変えて、その時のエラーメッセージを調べてやればsshのあらゆるエラーに慣れることができるから、まったく怖くなくなるだろう。だがコスパに見合わない。怖いなかビクビクしながら何とか直すことのほうが、時間的には遥かに短く済む。

だからきっと、このプログラミングはずっと怖いままなのだ。

 

 

プログラマが使う道具は 、どんどん増えていく。数年前にはDockerなんて存在しなかった。今では企業でも実戦投入を始めている。DockerにはDockerfileという設定ファイルが存在する。その書き方はbashMakefileに似ているが、若干違うところもある。その「若干違うところ」を学ぶときは、全神経を研ぎ澄ませる。「怖い」からだ。まして新しい道具の場合は、エラーメッセージすら信用できない。公式のチュートリアルを全部無視して、githubに上げられている「実際に動く設定ファイル」を説明書として読むことだってある。

 

新しい道具を学ぶときには、つねにリスクが付きまとう。

Rubyが書けるようになったからとか、
どの入門書を読んでも知らないことがなくなったから、
それで学習が終わりなんてことはありえない。

 

ある程度書けるようになってくると、あとはプログラミングによる問題解決をいかに効率的にするかの最適化勝負になってくる。

 

 その最適化に含まれる小問題が、設定ファイルの「怖い」プログラミングだと思っている。設定ファイルのプログラミングでは常に、不確実な環境下での最善の判断が求められている。

価値観について

人の話を聞いたときに、賛成したい気持ちと反対したい気持ちがほぼ同時に発生することが増えた。異なる価値観が同居していると言い換えてもいい。

 

たとえば、コンサルタントとして就職したい、と友人Aから聞いたとする。「いや、かつて戦略コンサルがイケイケだった時代とは違って、いまではコンサルタントコモディティ化(汎用品化)しているし、当時のような人材は集まっていないよ。」という反対意見も浮かぶし、「この子だったら、あの生き馬の目を抜くような過酷な競争環境でも生き残れるかもしれない。」と応援したくなる感覚もある。

 

実際、戦略コンサルタントとして1年目を終えた友人Bは、目に見えて人間としての魅力が高まってきており、優れた上司とも知り合えたみたいで、このような洗練された人物が育つ場所ならば良いのではないかと思ったりもする。

 

ところがそんな友人Bの話を聞いてみると、職場環境としては耳を疑うような話も聞いたりする。高給だから低賃金長時間労働ではないが、果たしてその数百万を稼ぐためにその時間を売ることが適切なのか、という不安感を覚える。成功例ですら万々歳ではない。情報のベクトルが入り混じり、感情と発言をひとつに定めることができない。

 

そんなとき、友人Cの発言を思い出す。「調べていくと良い情報も悪い情報も何十何百と集まりますが、それは当たり前なので、当面は重要事項だけに集中します」。

 

それでは重要な事項とはなんだろうか。

この文脈で言えば、僕は価値観に沿う事項だと思う。

 

 

成功は定義できない。荒すぎる概念だ。幸せも定義できない。それも雑すぎる。世間的には大成功したと思われている人も、本人に聞いてみると意外な悩みに苦しんでいたりするし、楽しかったりワクワクしたような思い出も細部まで点検すると辛い時間がけっこう長かったりする。最後にハッピーが待っているような事項を幸せとみなす人ばかりではない。純粋に楽しみだけで満たされた活動が存在するとは思わないし、それが幸せであるとは信じない。

 

一日の、あるいはある期間の多くが、自身の価値観に反さない時間であることを、人は求めているように思える。人は「いま自分の価値観に沿っている時間の過ごし方をしているなあ」とは言わない。「いま幸せだなあ」と言う。高校で文化祭実行委員をやった子が、大学でも多くの時間を投下して参加していた。彼ら彼女らにとっては計画の興奮がどんな日常の些事より重要だったのかもしれない。どんな日常の些事よりも。

 

目的もあまり適切ではない気がしている。僕含め多くの人は大して目的もなく過ごす時間を経験しているし経験していく。そのときでも残っているのは何かと考えたとき、価値観は残っていると思う。明確に意識されているわけではない、自然あるいは反射的な感情や感覚。

 

その観点から、どうして自分が二律背反な感情を人の意見に持つようになったのかを考えてみると、たぶん「できるのならば知りたいことは網羅的に知りたい」という自分の価値観が影響しているのだと思う。同じ現象であっても、時と場所がほんのすこし違うだけで全く異なる結果になることを知ってしまった。これからはこの状況と付き合っていかなければならないのだと思う。

2015年度紅白歌合戦の出場年齢層は14年前と比べて若返ったか?

 

昨日は久しぶりに紅白歌合戦を見ていたのだが、おや?と感じた。

 

なんだか子どものときに見ていた紅白に比べて、知っている歌手が多い気がする。

 

♪ 僕の身体が昔より 大人になったからなのか と徳永英明風に無視してもよいものだが、何だか気になった。年末は掃除やら何やらでいつもバタバタしているので、僕が最後に紅白をまともに見たのは恐らく小学生か中学生のころ。つまりいまから10数年くらい前だ。

 

紅白は10数年前から何が変わったのか。

 

Wikipedia紅白歌合戦のページを見てみると、

 

第53回2002年)において、番組側は「日本音楽界の総決算」をテーマを掲げ、出場歌手・曲目の多ジャンル化を決行[76]第52回2001年)まで常連だった演歌歌手が次々に落選となり、同回以降、演歌歌手の出演数が従来の半分以下になった[77]NHK関係者は「出場歌手別に視聴率を調査すると演歌の時が目立って下がる。止むを得ない」と語っている[78]。

( NHK紅白歌合戦 より引用、強調は僕によるもの)

 

とのことだ。

 

今年の出場者陣を改めて見てみると、氷川きよし(38歳)や山内惠介(32歳)など若手の演歌歌手は確かに残っているし、常連の演歌歌手の名前もチラチラ見えるのだが、確かに子どものときに比べて(僕にとっては退屈な)演歌の時間が減った気がする。

 

興味を持ったので、分析してみた。対象としたのは、上記Wikipediaによると「演歌歌手を減らす前」だった2001年の紅白出場者と、今年2015年の紅白出場者の年齢である。

 

紅白歌合戦は、60年続くだけあって、紅白歌合戦データベースなんてサイトがあるぐらいファンが多い番組のようだが、このデータベースサイトにも「出場者の年齢変化」を扱っている様子はない。60秒に及ぶ綿密で網羅的なGoogle検索の結果、ひとつだけ先行研究を見つけたが、2015年の出場者のみであり比較ではない。

 

紅白出場者の年齢がどのように分布しているのかは、あまり調べられていないようだ。なので、2015年のデータについては先行研究のデータを参考にし、2001年についてはWikipediaで大体の推定値を入力した。

 

グループアーティストについてはボーカルの年齢を、全員がボーカルのアイドルグループについてはWikipediaで目についたメンバーの年齢を代表値として入力した。

 

その結果、得られたのが以下の出場世代分布図だ。

 

f:id:koshka-j:20160101180021p:plain

 

なんと、出場者の平均年齢は14年経っても1歳ぶんも変動していない。

 

これは美輪明宏(80歳)が初出場で最年長だったからではなく、むしろ美輪を抜くと2015年の平均値は39.9となり2001年と0.1歳差に迫る。

 

しかしグラフからは平均年齢は変わっていなくても分布の中身がかなり変わっている印象を受ける。紅白の出場者は2001年が54団体、2015年が52団体で大差ないが、30代の出場歌手が激増している(8団体→18団体)。その代わりに減ったのは40〜50代であり、28団体から13団体まで減っている。つまり、平均年齢が一致したのは単なる偶然だと言えるだろう。おそらくこの分布は最頻値 mode や中央値 median で解析するべき特質を持っている統計データなのだ。紅白がどういう思想で作られている番組なのかは寡聞にして知らないが、最頻値が「コンテンツの中心となる歌手陣の世代層」、中央値が「平均の年齢」とみなしてよいのではないだろうか。中央値は01年で43歳、15年で37歳である。

 

個別に見ていくと、同じ50代のソングでも主要ジャンルが変化しているような気もする。僕はあまり歌手に詳しくないので全員について言及することはできないが、少なくとも今井美樹徳永英明X JAPANが歌うのは演歌ではないことは分かるし、というかヨシキはピアノ弾いてたし、松田聖子が歌っているのは『赤いスイートピー』だ。 ♪ 春色の汽車に乗って 海に連れていってよ…。同じ世代層と言っても、もはやコンテンツの特質が異なるということか。

 

30代はゆず・TOKIOSMAP椎名林檎EXILEなどなど10代後半の若者〜30代(?)に受けそうなグループが参戦しており、38歳ーーここが2015年の分布のピークであることは興味深い。2001年のピーク(最頻値 mode )は51歳だったのである*1

高齢化社会の中で、なぜか紅白の出場者は若返っているのだ。

 

そして、60代での出場者も増えている(3人→6人)。2015年は2001年より出場組数が少ないのにだ。ちなみに小林幸子(62歳)は特別枠での出場だったので2015年の統計から外しているため、彼女を入れると7人、すなわち2.3倍になる。

 

ところで、なぜ01年のほうが最年少出場者が若いの?と思う人もいるかもしれない。ザッと調べたところ、労働基準法に抵触する恐れがあるため自主規制をしているようだ。

 

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出場順をヨコ軸、年齢をタテ軸に取ると、上のグラフのように、およそ22:00前で18歳以下の出場者が消えることが分かる(今年のNMB48は大丈夫だったのだろうか?あまりよくわからない)。また、2001年は後半の10人全員が40歳以上という特殊な現象が生じている

 

その10人の曲目を出場が早いものから並べてみると以下のようになる。

 

森昌子森昌子メモリアルスペシャル」

美川憲一 「恋女」

石川さゆり 「涙つづり」

堀内孝雄酒と泪と男と女

川中美幸 「大河の流れ」

さだまさし 「きみを忘れない~タイムカプセル~」

天童よしみ 「春が来た」

五木ひろし 「逢いたかったぜ」

和田アキ子 「夢」

北島三郎 「山」

 

これは若者には厳しい布陣…!!!

やはり、2001年はクライマックスに演歌系で盛り上げるという特殊な傾向があったようだ。

 

 

まとめ

 

  • 01年と15年の紅白出場者の年齢を比較することで、日本の年末定番番組のコンテンツの変質を追った。
  • 同じ50代のソングと言ってもジャンルが異なる傾向にあることが示唆された。
  • 出場者の年齢分布の最頻値が50代から30代に移ったことを確認した。中央値は43から37に変遷した。
  • 若い人は前半でほとんど切り上げるのかもしれない。

 

個人的な感想

 

同じ番組とはいえ、製作方針がかなり変わっている印象を受けた。小林幸子がコメント弾幕のなか千本桜を歌うのは、演歌とは違う向きでの生存を狙ったイノベーション戦略だろうし、まあぶっちゃけ普通に見ていて面白かった。

来年も見ることにして、楽しみにしていよう。

 

使用したデータはこちらです。

紅白ファンの方、年齢のデータなどおかしい点などあればぜひ指摘お願いいたします

*1:同率で24歳もピークである。