蛍光ペンの交差点

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推論機構と真実 (2) 「バカ」のモデル化の可能性と意義

以前の記事(「推論機構と真実 (1)隠れたバグか、隠れた真実か」)で述べたことを、誰もが生きる上で避けられない大問題に即して考えてみる。

それは、「バカ」のモデル化である。

経済学は、「合理的な行動をする主体」として、人間や投資アルゴリズムを定式化した。また、ダン・アリエリィなど行動経済学の研究結果が示す通り、近年では「一見すると不合理に見えるが通底する理由を推測できる」人間の行動も理解されている。

これらの研究結果は有用だが、僕は寡聞にして、いわゆる日常見る「バカな行動」をその第一原理から説明することを主眼に置く、あえて名付けるならば「愚行学」とでも呼べるものを知らない。(もちろん、既にマルチエージェントモデリングゲーム理論などで、ある種の特殊ケースを扱っているのだとは思う)

バカとは何か?僕は論理学を全くやってこなかったので、正確な表現ができるとは思わないが、知っている限りの言葉を使ってできるだけ考えてみる。

現時点での僕の理解で定義するならば、バカとは
(1)「理解者側にとって、理解できないと直感で結論づけてしまった人のこと。またその行動。機械学習の言葉で言えば、生成プロセスが(単なる表による表現以外には)要約できない関数(行動の場合は関数値)。関数の中身を、簡潔な演算や生成で表せないということは、機械に模倣させることが極めて困難であることを表す。」
(2)「合理的な行動が正解だと分かっているのに、本人の能力不足でそれが達成できない人のこと。テストでバカなミスをしてしまった、など。」



肝心なのは、(1)である。特に肝心なのは、(1)に関する以下の問いである。

「理解できない」とは「理解が不可能だ」ということを意味するのか?「理解が困難だ」ということを意味するのか?

ピーター・ティールが言うように、この違いは重要だ。

そして、彼に倣って僕が主張したい逆説的な命題は、

「多くの人はバカは理解不可能だと思っているが、真実はその逆で、バカは(今後の計算機科学・論理学の発展次第で、理解可能だ」

ということである。

これはあくまで直感である。勉強不足につき、エビデンスはまだ存在しない。
しかし合理的なプロセス自体が、ディープラーニングなどのテクノロジー発展により確定不可能な不確定性ギリギリまで高精度で理解できるようになった以上、次の難題は「非合理的なプロセス」、すなわちバカの高精度な理解である。バカを確率分布でどう理解できるか?は、交渉、台風、炎上など、多くの社会問題を変化させる可能性を秘めていると僕は考える。

人間が計算機より豊かなのは、単に生物であるからという以上に、使っている論理学が演繹や帰納アブダクションなど、現在の計算機で扱える論理以に数が多いのものであるからだと思う。つまり、古典的な論理学における矛盾を積極的に有効な推論として使用する傾向にある。そしてそれは、現在より遥かに複雑な論理体系により、少なくともモデル化をしないよりは深く理解可能ではないだろうか。