蛍光ペンの交差点[別館]

"どの点に関心をもつべきか ―をわれわれが学びとるのは,もっぱら仮説からだけである"

価値観について

人の話を聞いたときに、賛成したい気持ちと反対したい気持ちがほぼ同時に発生することが増えた。異なる価値観が同居していると言い換えてもいい。

 

たとえば、コンサルタントとして就職したい、と友人Aから聞いたとする。「いや、かつて戦略コンサルがイケイケだった時代とは違って、いまではコンサルタントコモディティ化(汎用品化)しているし、当時のような人材は集まっていないよ。」という反対意見も浮かぶし、「この子だったら、あの生き馬の目を抜くような過酷な競争環境でも生き残れるかもしれない。」と応援したくなる感覚もある。

 

実際、戦略コンサルタントとして1年目を終えた友人Bは、目に見えて人間としての魅力が高まってきており、優れた上司とも知り合えたみたいで、このような洗練された人物が育つ場所ならば良いのではないかと思ったりもする。

 

ところがそんな友人Bの話を聞いてみると、職場環境としては耳を疑うような話も聞いたりする。高給だから低賃金長時間労働ではないが、果たしてその数百万を稼ぐためにその時間を売ることが適切なのか、という不安感を覚える。成功例ですら万々歳ではない。情報のベクトルが入り混じり、感情と発言をひとつに定めることができない。

 

そんなとき、友人Cの発言を思い出す。「調べていくと良い情報も悪い情報も何十何百と集まりますが、それは当たり前なので、当面は重要事項だけに集中します」。

 

それでは重要な事項とはなんだろうか。

この文脈で言えば、僕は価値観に沿う事項だと思う。

 

 

成功は定義できない。荒すぎる概念だ。幸せも定義できない。それも雑すぎる。世間的には大成功したと思われている人も、本人に聞いてみると意外な悩みに苦しんでいたりするし、楽しかったりワクワクしたような思い出も細部まで点検すると辛い時間がけっこう長かったりする。最後にハッピーが待っているような事項を幸せとみなす人ばかりではない。純粋に楽しみだけで満たされた活動が存在するとは思わないし、それが幸せであるとは信じない。

 

一日の、あるいはある期間の多くが、自身の価値観に反さない時間であることを、人は求めているように思える。人は「いま自分の価値観に沿っている時間の過ごし方をしているなあ」とは言わない。「いま幸せだなあ」と言う。高校で文化祭実行委員をやった子が、大学でも多くの時間を投下して参加していた。彼ら彼女らにとっては計画の興奮がどんな日常の些事より重要だったのかもしれない。どんな日常の些事よりも。

 

目的もあまり適切ではない気がしている。僕含め多くの人は大して目的もなく過ごす時間を経験しているし経験していく。そのときでも残っているのは何かと考えたとき、価値観は残っていると思う。明確に意識されているわけではない、自然あるいは反射的な感情や感覚。

 

その観点から、どうして自分が二律背反な感情を人の意見に持つようになったのかを考えてみると、たぶん「できるのならば知りたいことは網羅的に知りたい」という自分の価値観が影響しているのだと思う。同じ現象であっても、時と場所がほんのすこし違うだけで全く異なる結果になることを知ってしまった。これからはこの状況と付き合っていかなければならないのだと思う。