(この記事は、以下の大学職員の呟きに触発されて書いている。)
地方国立大学が、低学費、低コストで教育格差の解消に役立っているとしたら、「地方都市」たる東京の、東京大学も世界観帝国の文脈では、同じ文脈にあると考えられるでしょう。
— 瀧本哲史bot (@ttakimoto) 2015, 6月 25
多くの人たちは、
東京大学は一流の大学だと思っているが、
真実はそうではない。
東京大学は、二流の大学である。
それは、東京大学に一流の人間がいないということではない。
一流の人間は東大にゴロゴロ居る。一流の資材や制度も無数に存在する。
問題は、三流以下で価値を出せていない人間や制度が、
それよりも比べ物にならないほど大量にのさばっているせいで、
大学全体の平均値として二流程度になっていることである。
まともに機能していない必修授業やカリキュラム、
大学教員の指示も伝わらないほど低い一部学生の英語力、
歴史的に形成されたという理由だけで残存している不合理な制度、
教員による雑用など比較優位の原則はどうしたといった感じの慣習の多さなど、
この組織体が抱える問題は多い。
だが大衆の意見の逆が、そのまま真実になるというワケではない。
東大が世界の大学に比較して二流の大学であるということは、
東大の未来は絶望的であるという主張も、
世界的インパクトが世界の一流大学のそれを超えないという主張も含まない。
そもそも、そう考えること自体が、「1位や入賞以外には価値がない」とする競争や、「合格点を満たしていなければ価値がない」とする採用の狭い価値観に染まっている。
社会は、どんなサイズのものであれ、
一位や上位のものだけで提供されているわけでは決してない。
チームの作業成果は、チームメンバー各人のアウトプットを
どれだけ最大化できたかの総和や積で決まる。
いつまでも理想を追い求めてドアの前で嘆くより、
手元のカードで最善の結果を出すほうがよっぽどいい。
実際そのようなものが、Linuxであり、QWERTYであり、
とても会社名は出せないが、無数の会社であったわけだ。
どれも社会に対するインパクトは大きかった。
強力なカードは既にいくつか揃っている。
どの大陸を見渡そうが、どの相手も持っていないほど強力なカードが。
「**学部は大学2年の冬がピーク」とも言われる
半ば形骸化したカリキュラムをものともせず、
勝手に強くなった優秀な人たちが。
将棋の歩は素人が思っているより役に立つ。
適切なタイミングで、適切なポジションに居るならば。
役に立った局面で歩を責める人は居ない。
むしろ、歩であることが賞賛される。ちっぽけな歩であることが。
そのときに、歩を内心で馬鹿にしている悪者は存在しない。
そこにあるのが本当の賞賛である。
そのような状態が正常であり、
一位のみが生き残る社会より現実的であり、
実現性と多様性の観点から理想であると、
どうして私たちは教えられてこなかったのか?
二流の大学で育った人間が考えるべきことは、
どうすれば一流の人間になれるか?ではない。
それは、どうしたら一流の歩になれるか?である。
我々の強力なカードの中に、いま、ほんとうに歩は入っているだろうか?
(参考文献 :
瀧本哲史氏セミナー:「人を動かす最大の武器は魅力的なビジョンである」
「キーパーソン」の意味に着目して読もう )