蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

パンドラと希望の箱

考えてみれば過去には風変わりなコミュニティにも所属していたように思う。

 

しかしどの場所にも希望はあった。

 

災厄が全て解き放たれたあとに、希望だけが中に残されたパンドラの箱という寓話がある*1

 

パンドラの箱の通俗的な解釈は「だから、人類に希望は残されている」というものである。一方で世の中には論理的にしっかりものごとを考えたい人たちもいて、彼らの解釈は「災厄の箱の中に入っていたのだから、希望も実は災厄なのだ」というものだ。

 

なるほど、災厄が詰まっている箱をパンドラの箱というのだから、その解釈は一見すると尤もらしく感じられる。しかしながら、本当に箱の中を全て災厄で揃えることは可能なのだろうか。ギリシャ神話の品質管理部門はどのような検査で災厄かどうかを判定したのだろうか。ノイズ無しの教師データを整えることは2値分類であっても極めて難しい。とりあえず災厄だということで売り出してみたら、あとから顧客が「ちょっと、これ災厄って書いてあるけどよく見たら希望じゃないですか、ヽ(`Д´)ノプンプン」と返品カウンターに列を作ったりはしていないだろうか。パンドラの箱のなかに入っていたのは「争いの女神エリス」や「夜の女神ニュクスの子供たち」だと言うから、むしろこの選別は人事の仕事に近かったのかもしれない。となると人事がリスク人材だけを100%採ることは現実的に可能なのだろうか…改めてこう考えてみると、すべてを災厄で揃えることは、むしろ極めて難しいことのように私には思える。

 

確率的な事象に対する世界観が浸透した21世紀にあっては、私たちは災厄一色の古典論とは別の解釈を取ることができるだろう。それは、悪い人たちが結構頑張っても希望は箱の中から取り除けなかったのだ、というものである。

 

エヴァンゲリオンでカヲルは「希望は残っているよ。どんな時にもね」と説く。村上春樹のデビュー作は「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」という一文から始まった。風刺作家Scott Adamsは失敗の平原の中には必ず成功が埋まっていると記した。自己啓発本Switchでは悲惨な生活環境の集団の中で良好な栄養状況を保っていることをBright Spotとかと呼んでいたように記憶している。このテーマは数々の場所で繰り返し多様に説かれ、そしておそらくは真実である。

 

 なにか新しい挑戦をすることは、パンドラの箱を開けるようなものである。ましてやその挑戦が必ずしも望んだものでなかったなら尚更だ。

 

しかし、希望は残っているよ、いつでもね。

我々には確率が味方している。

*1:希望じゃなくて予知だという説もあるがここでは採らない