蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

学ぶことは楽しいことではない:学び続けるスキルとは何か

私は、一般に吹聴される「学ぶことは本来、楽しいことだ」という主張は誤っていると思っている。

 

たとえば英語を始めたとする。最初は英会話にせよニュース購読にせよ、新鮮な気持ちで読めるから楽しいと感じるだろう。だが活動がパターン化していく中で、あなたは違和感を持ち始める。ネイティブが自分にレッスンをしているときは聞き取れるのに、彼が別のネイティブと話しているのは全く理解できない、彼らの話している米国政治やらNFLやらの話題についていけない。気がつくと彼らf***ばかり言ってる。レッスンでは一度も使っていないのに。英字新聞を読もうとしたら英単語が難しすぎて2段落しか読めない。スクロールバーからすると、まだ9割以上残っている。米国政治について前提知識を付けようにも、彼らは入門書を知らない。彼らに説明してもらっても人名や事件名が多くて理解できない。辞書を引きながら読んでもハマる語義が見当たらない。仕事や家庭は忙しい。そのうちに、活動自体からフェードアウトしていき、以前の日常に戻っていく…

 

あるいは筋トレを始めたとする。最初はいや〜普段運動してないからきっついな〜とか笑いながら、それでも終わった後の爽やかな疲労や久しぶりの筋肉痛に前進を感じ、健康的な生活習慣に一歩踏み出した自分に対して悦に浸ることができるだろう。だが3−5回(1−2週間)やるうちに気持ちに変化が起きてくる。シューズを持ち運ぶのが面倒だ、普段持ちのバッグが小さくて気に入ってたのに変えないといけない、トレーニング中の辛さが想像できてウンザリする、今週は仕事が忙しくてもっと寝たい、なんで仕事で疲れて更に疲れなければいけないのか、成果が出るまでに少なくとも2−3ヶ月って長すぎでしょ、しかもほんの少しの変化だし…これを半年も一年も繰り返す訳???アルコールも控えろって?日々のストレスをナメてんの?と、生活改善の詳細に突き当たる…

 

様々な人の経験談を聴き自己体験を経る中で、私は、上述の標語はイデオロギーであり、教育機関の宣伝や自己啓発に使われるテンプレートに過ぎない、とみなすようになった。

 

私はむしろ、「学ぶことは本来、苦しいことだ」と思っている。人は、前提知識が揃っている段階で、適切な速度と場で提示された時しか記号に関する新規事項を理解できない。お膳立てをこれでもかと尽くされて初めて、ギリギリでエンターテインメントに分類できる(=楽しい)ものになる。身体知であれば、疲労(時に吐くことも)、故障(後遺症になることも)、停滞、動機、不正確な情報を制御しながらの、長い長い戦いになる。そう考えると、なぜゲーミフィケーションという考え方が流行ったのか、なぜ優れたプロジェクトマネジャーは概して新しい趣味を始めることに成功するのか(n=3)が自然に納得できる。すなわち、今流行りの「学び続けるスキル」とは、端的には以下の2つの混合を指すと思う。

  • ポジティブシンキング:苦しみに楽しみを混ぜ、学ぶこと自体の一次効用(first-order consequence)を高める、究極的には自己目的化させる
  • 問題解決スキル:苦しみの増幅器となる現実の困難(時間の確保、用具の整備)の弱体化、あるいは削除

 

そうして、私は学ぶことは本来、楽しいことだ」が指し示そうとしている現象を、「学ぶことは本来苦しいことだが、学び続けるスキルによってある程度まで楽しいものにできる」として理解している。スキルなので、個人差と熟練差がある。加えて、ポジティブシンキングで解決しているのか(傍から見たら辛いが本人は気にしていない)、問題解決スキルで解決しているのか(他人からも良い環境で行えているように認識される)にも違いが現れる。

 

 

さて、このように捉えることで何が変わるだろうか。
私は学習コミュニティの役割が変わると思っている。

 

学習コミュニティは、複数の学習者に同一の進度を課すシステムとしてこれまで機能していた。しかし今後ますます、個々人の進度のズレの差が開いていく、そしてもはや形骸化する段階まで来ると思われる。そのような状況になった場合、進度にそぐわない長い授業よりも進度を見極めて発した熟練者のたった一言のアドバイスのほうが有効に働き、実質上の学習システムとして働く可能性が高い。そうなった場合、学習コミュニティにおいて以下の3点が重要となる。

  • 大量の学習時間の強制(会社を辞めて2年間過ごすプログラムなど)
  • 個人では用意が難しい資材(論文アクセス、有識者との面会)の確保
  • 進度の異なる学習者間の交流

 

 

これらの3つは、どれも「学び続けるスキル」の涵養に役立つ。感覚論で言ってしまえば、勉強はとても辛い。私のような凡人はたった一人で辛いことを3年も5年も続けられるほど強くない。何らかの外力が必要であり、カリキュラムはその役割を果たす。多くの機関は情報リソースへのアクセス権を与え、時に触媒として非連続な変化を生み出す。

 

また、学んでいて問題があることは分かるが、解決策が分からないことは多い。そんなとき、分散システムは楽しいぞ〜計算機理論楽しいぞ〜みたいな、もはや上述のような定式化が後景に薄れ、純粋にエンターテイメントとして楽しんでいる人たち、あるいは逆に私より苦しんでいる人たちと関わると、どのような思考法で臨めばいいのか?どの問題を真っ先に取り除くべきか?私はどの問題を解決してきたのか?のヒントと動機を得ることができる。同じ授業で学んでも、全く別の問題を解く人たちも多い。彼らのツールの使い方から、自分のツールの使い方を見直すこともしばしばだ。