蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

計算と走る

およそ基礎と言われる単元の学習を終えると、第二言語学習者は「英語学ぶのではない、英語学ぶのだ」などの助言を受けることが多い。この一文が興味深いのは、自然言語において日陰者と思われがちな助詞(particles)が主役となって、あらゆる学習者が十数年間の未来に渡って辿っていく出来事を的確に捉えているからだ。

 

さて、計算機科学者あるいは実務でコンピュータに携わるものはみな、計算走らせる・・・・・・・という言葉を使う。名前の通りcomputerはcomputationを行なうものだから、これは疑いを差し挟むことなく正統的な表現である。世界史においてここ数十年使われてきており、今後もそれは変わらないだろう。データの増大と計算コストの低下で、計算を走らせることはますます盛んになると誰もが予想している。

だがこれからは、計算走ることのほうが本質的になる・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

Googleが買収した英国の会社DeepMindが作成したプログラム AlphaGo が、2010年代前半における世界最強の囲碁棋士とも評されたイ・セドルを、4−1で破った。人工知能の歴史において、囲碁で機械がトップレベルの人間に勝つのは十年先のことだと思われていた。

 

この話については、とにかくドキュメンタリー映画 AlphaGo を見て欲しい。Youtubeでレンタルできる、あるいは買えるし、字幕も英語のみだがフルで出る。特に第1局から第4局におけるイ・セドル氏のあらゆる言動から、計算と走るとはどういうことなのかを目撃して頂けると思う。

 

少しのネタバレを覚悟で考察を共有すると、この映画において最も大事なのは、あるタスクにおいて地球上の何よりも強い存在が前触れもなく現れたとき、人類最強クラスの人間は何を考え何をするのか、その実例になっていることである。誰も解いたことのない問題を出せる存在が現れたときに、人は何をするのかとも一般化できる。

 

具体例を1つ述べる。第一局でイ・セドルは予想外の負けを喫した(彼は自分が5戦全勝すると見ていた)。彼は夜の間ずっと敗因を検討していたらしい。続く第二局において、AlphaGoはおよそ2016年のその場にいた全てのプロ棋士が悪手と評す、第37手を選択した。この手は、AlphaGoの計算によれば人間が打つ確率としては0.1%を切る。すなわちこの手は機械しか打てず、もちろんイ・セドルはこの手を人生で見たことがなかった。

 

解説者の誰もがこの手を批判する中、イ・セドルだけが異なる感想を持った。イ・セドルは他のプロによると独創的な手を打つ名手らしく、この手を悪手ではなく未開拓の戦略と受け取るだけの柔軟さがあった。

 

"I thought AlphaGo was based on probability calculation and it was merely a machine. But when I saw this move, I changed my mind. Surely AlphaGo is creative."

(拙訳:「最初は、アルファ碁は人間がこれまでに打った手の確率の中から、最も勝ちそうなものを機械的に選んでいるだけだ、と思っていた。でも第二局の第37手を見たとき、考えが変わった。間違いなくアルファ碁は、自分で新しい手を作っている。)

(Lee Sedol in Movie "AlphaGo")

 

目の前に現れた新奇な問題に対して、彼はあらゆる手を考えた。彼は計算と走っていた。12分を超える長考の末、次の手を打ち、やがて負けた。

 

この事例が示唆するのは、人間を超える精度の結果を計算が弾き出すことで、むしろ人間のほうが新しい計算を迫られる・・・・・・・・・・ということだ。人間は、端的に言えばアナログな計算機である。手に入った結果がこれまでとは異質なことで、全ての前提が変わり、人間は新しい最善手の計算を求められる。

 

そのような局面において、「(電子計算機上でのみ)計算を走らせる」という世界観、すなわちプログラムに相談してこちら側の最善手を決めてもらうということは、必ずしも最善手にはならないだろう。そのことを示したのは第4局なのだが、まあそれは見てのお楽しみということで…