蛍光ペンの交差点

"科学と技術に支えられ、夢を語る人になる"

最善xのなかみ:不完全情報と柔軟性、行動指針と一貫性

肯定側と否定側に分かれて第三者に互いの主張の正当性を納得させる競技ディベートにおいて、もっとも鍵となるのは周到な準備だと言われる。たとえ私たちがAという行動の良さをいくら熱弁したとしても、世界70億人に過去200年間に渡って実験した結果、Aが悪影響しかもたらさないことが再現可能な形で示されたという証拠を突きつけられたとしたら、何か間違いでも起きない限り第三者は否定側を支持するだろう。

 

しかし現実はそれほど白黒がはっきりしていない。明確な証拠が手に入ることは滅多にない。妥協策として私たちは、不完全な情報の信頼性を考量して最適な選択肢を選び、行動していく。

 

この一連の過程において最も期待利益を向上させる鍵となるのは、将来なにかより明確な証拠が手に入ったら、別の選択肢に乗り換えることも厭わないという柔軟性である。明らかな証拠が手に入ったら人は多く意見を変えるため、明確な証拠を手に入れるための調査戦略のほうが大事だ、と主張する人もいるかもしれない。柔軟性と調査戦略、どちらを最重要とみなすにしても、一つの前提を置いている:より良い選択肢が分かったならば、一貫性に固執する必要はない。言い換えれば、優劣の変化は一貫性に勝るとも言える。伝統よりも変化を重んじる、という言い方がされるとき、指しているのはこれだ。

 

一方で、多くの組織や個人は行動指針(principles)と呼ばれる表明を保持している。行動指針は、個々の思考や行動のあいだに存在する違いを取り払ったときに、一貫してそれらの思考や行動の前提、理由、共通点として存在する要約(gist)のことである。あの人は頑固な人だね、と形容されるとき、その人には「一度決定したら貫き通す」という行動指針が存在する。要約であり、その人が生成する思考や行動の多くにその成分が含まれるため、たかが記号列でありながら、ある意味でその人あるいはその組織そのものにかなり近い存在である。

 

このような思考整理を推し進めていくと、いくつかの傾向が観測できる。

 

1(成果主義の制約).最善を求める場合、過去の多くの選択は一貫できない。唯一、よりよい結果を求めるという、そのこと自体が透徹される。その様子は、多くの人から見たら、不思議な変化、「一貫しない行動」に見えるかもしれない。

2(行動原理の制約).最善を求める場合、いくつかの言語的に表現可能な要約は行動原理として永続しない。「一度決めたことを変えない」や「必ず顧客の要望に答える」は、最初の行動を決める戦略にはなるが、途中で顧客の要望に答えない(法律に差し障るなど)などに転換し、上書きされることを避けられない。

3(成果主義の不確かさ).「最善」は一意に確定できない。ものさしの選び方によって、異なる人の間、あるいは同じ人の違う時点間において異なる。そのため、「最善を求める」の最善は、プログラミングで用いる書き換え可能な変数xと同程度の拘束力しかもたない。

 

こうして考えてみると、成果主義において唯一、一貫して見える最善志向すら、どのようにも動かせるだけの自由度を持った曖昧なものであることに気づく。理想、自己にとっての真善美の設定が重要なのはそのためである。理想はxの内容を定め、続く全ての部分を定位置に付かせる。人々が「一流のものを見て考えろ」と言うとき、その助言はその人のかなり上流に効かせようとしている。

 

なんでこんなことを考えているのかというと、自分は、「不完全な情報しか手に入っていないにも関わらず、まるで事実として確定のようなふうに主張を述べる」ことが昔から大嫌いだったのだが、野球のルールも知らずに球場に来て批判しながら楽しんでいる人たちや、3文読んだ程度の理解で最近話題になった時事ニュースについて論じる人たちを見ている中で、これもまた一つの最善xの形か、と、前よりも正面から受け止められるようになったことを自覚した。その中で、自分が持っていた「十分な確信が持てないうちは話題に自説を持たない」という確固たる行動指針は、むしろ着脱可能にしたほうが良いのだという感覚を持つに至った。優劣の変化にさえ気をつけていれば、その行動指針はなくても問題がない。